タグ別アーカイブ: 村上春樹

宮崎駿や村上春樹に見る、コンテンツの普遍性と「物語」の役割

コンテンツやアートの本質は普遍性にある?

コンテンツやアートの本質とは、見てる人たちに「普遍性」を持たせられるかということだと思うんですね。

一番最初のレベルが、既に共通の知識がある題材を取り扱うことでコンテンツ自身に「普遍性」が備わってる場合。

たとえばお笑いの漫談などで時事ネタを扱うものがあります。政治家の失言や、芸能人のゴシップなど、皆がすでにニュースなどで得ている共通の知識を下地にしているので「普遍性」を持たせやすいのです。
バズメディアでやたら「猫」の写真がシェアされるのも「猫は可愛い」という一種の普遍性であり、題材に手を加える必要がありません。ネットではこのお手軽な「普遍性」を持ったコンテンツが多いように思います。ゴシップもそうですし、ソーシャルゲームも人間に備わった射幸性を刺激するという意味ではプリミティブな普遍性なのかもしれません。

次のレベルは、観る人たちに一定の知識を求めるコンテンツやアートです。観る側が共通知を持っていることによって、コンテンツに自身で普遍性を添えていきます。例えば古典アートがそうですね。印象派とか、キュビズムがどうとか、バックグラウンドの知識を備えておかなければアートを咀嚼出来ません。こういったコンテンツやアートを味わうには体系的な知識が必要なのです。古典アートの他にも、ファッションというコンテンツを咀嚼するにも、体系的な知識を得ていた方が普遍性を持ちやすくなります。スポーツを観戦するときもルールが分かっていた方がより分かりやすいですし、そのチームやプレイヤーの歴史についての知識があったほうがより普遍性を持ったコンテンツになります。阪神タイガースなんかその最たるものですよね。

そして次のレベルは「なんだかよく分からないけど、普遍性を持つ」というものです。冒頭でお笑いの漫談を例に出しましたが、シュールと言われる種類のお笑いがあります。初期のよゐこは、シュールなコントをする芸人でした。美容院のコントでヘアスタイルを「たくあんにして」と客に言われて頭にたくあんを乗せるコントがあります。頭にたくあんを乗せることが面白いという普遍性はないですが、笑ってしまう。これは人間の無意識のところに働きかけて普遍性を持たせていると言えます。
ラーメンズという美大出身のお笑い芸人(と呼んでいいのか)のコントを、故立川談志さんは「誰もが知っている常識を共感の道具として持ってくることは簡単なのだけど、ラーメンズは人間の無意識化のところで共感を作りだしている」と評していました。

普遍性を持たせるのは「物語」という箱

そして、この「なんだかよく分からないけど、普遍性を持つ」ということに有効なのは「物語」の存在です。主人公とともに、「物語」に没入することで、私たちはある種のフィルターを手にすることが出来、その「物語」は普遍性を持ちます。宮崎駿さんの作品は、公開されるたびに興行収入が200億前後を越えていますが、2000年代半ば以降の作品は解釈が難しい作品もあります。「ハウルの動く城」なんかは解釈の仕様がいくらでもありますし、難解な箇所もあるのに500万人も動員しています。観客側に共通知がなにのに普遍性を持たせることが出来る。これが「物語」という箱のなせる技でしょう。

同様に作家の村上春樹さんも「物語」の重要性について、過去にエッセイなどで何度か触れています。村上さんの作品も世界中で翻訳されて多くの読者を獲得していますが、彼の初期の作品は東京を舞台にした男性のごく個人的な視点で描かれる小説です。この作品が世界じゅうで受け入れられるのも、物語としての普遍性を獲得しているが故だと言えます。

また、優れた「物語」は、多重構造になっています。例えば先ほどの宮崎駿監督の最後の長編作となった「風立ちぬ」ですが、これを一番分かりやすい解釈で観ると「戦争を背景にした悲恋物語」ですが、岡田斗司夫さんの解釈ではこれはもっと残酷な話だという評もあります。

さらに「崖の上のポニョ」も、普通に観ると親子で観られるカワイイ生き物(?)が登場するハートフルストーリーとして片付けることも出来ますが、これは神話なのではないかという考察もネット上に流れました。

このように優れた物語とは、多重構造になっているが故に、何回も咀嚼することが出来るし、今観た物語と10年後に観る物語では全く違う内容をとして取ることが出来る可能性があります。
そしてこの「物語」の作り手として世界的に有名なのがトルストイやドフトエフスキーなどのロシア文豪でしょう。特にドフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の層の厚さはすごい。”3人の兄弟を主軸にした家族の物語”とも読めますし”宗教文学”とも読めますし”ミステリー小説”としても読めてしまう。最近は日本のベストセラーに並んでいる小説を観ると、100人が読んでも同じ解釈が出せる「筋書き」的な物が多いのかなと感じます。

こういった多重構造を持つ「物語」を咀嚼するというのは、人生の滋養を得るという意味で重要だと思うんですね。自分とは違う主観のフィルターを通して物語を追体験するということは、長期的に観て多様性の獲得に繋がると思うのです。最近はゼロかイチかの解釈が割り切られることが増えているように思うのですが、個人的な主観で描かれた普遍性を持った「物語」を私たちはもっと咀嚼すべきだと思うのです。


普遍性を持つ物語

41CcltXJi7L._SL500_AA300_

物語を求める消費者と提供するメディア

最近、ワイドショー的ネタに事欠かないようですが、こんな記事を見つけました。

フィギュアスケートの羽生結弦さんも理系女子の小保方さんも「現代のベートーベン」も、みんな同じだ。

人々は物語を求めていて、佐村河内さんであれば「耳が聴こえない」作曲家であり、小保方さんであれば「割烹着を着たリケジョ」というバックグランドに重きを置いて報道され、人々はその情報を咀嚼しているということです。

人間が感動をしたり共感するシチュエーションというのは、とても普遍的なものだと思うんですね。逆境に立ち向かうとか、大きなギャップがあるとか。そして、今の情報社会はそういった普遍的な物語を欲していて、常にそういったシチュエーションに当てはめよう当てはめようとしてるんだと思います。言い方を変えると、逆に消費する側もそういう分かりやすい普遍的な物語を求めてるんですよね。

すこし話は逸れますが、最近ソーシャルでバズったネタを集めるポータルサイトが話題になっていて、海外の有名メディアが日本にも上陸したようです。こういったメディアもまた「可愛い猫の画像」とか「感動できる一枚の写真」とか万人が消費できる普遍的な物を探してるんですね。

立川談志さんが言うお笑いの共感

お笑いもまた、普遍的ということがキーになるコンテンツです。爆笑問題などが昔よくやっていましたが、時事ネタを扱う漫才があります。そのときのニュース(今だったら間違いなく佐村河内さんでしょうね)を引っ張りだして、いじくるわけです。みんなの頭の中にある共通の情報を刺激して普遍化するわけです。

お笑いには、そういう王道漫才に対して、シュールというジャンルがあります。昔、お笑いネタ見せ番組を見ていて特別審査員に立川談志さんがいたのですが、特別賞をラーメンズに授与していました。ラーメンズは王道から遠く離れたどちらかといえばシュールなコントで有名ですが、そのときの談志さんのコメントがこんな感じでした。

「誰もが知っている常識を共感の道具として持ってくることは簡単なのだけど、ラーメンズは人間の無意識化のところで共感を作りだしている」

時事ネタというのは、誰にでも理解できる情報であり、普遍的に共感を誘えるのです。しかし、シュールなコントは受け取り側に何のベースの知識もありません。なぜ常識的な共通項がないコントが普遍性を持つのでしょうか。

作家の村上春樹さんが考える物語

作家の村上春樹さんの作品は世界中で読まれており、日本を代表する作家です。しかし、彼の作品は日本を舞台にしており、日本人が主人公です。海外が舞台なわけでも、最初から英語という共通言語で書かれているわけでもありません。精神科の故河合隼雄先生の対談集「こころの声を聴く」の中で、村上春樹さんが以下のようなやり取りをされております。

村上「僕が物語を小説で書いてて思うのは、結局のところそれはシミュレーションなわけですね。疑似ゲームなんです。例えば自我と環境との間でいろいろ葛藤がありますね。ところがそれを書いても誰も納得できないんです。僕が例えば河合先生と喧嘩をする。で、頭に来る。これを誰か他人に説明しようとしても、僕の怒りというのはそのまま正確には伝わらない。何が伝わるかというと、なんか村上が怒っていたと、それしか伝わらない。僕がどれぐらい怒っていたかというのは伝わらないんですよ。」

河合「そのとおりです。」

村上「それをどう物語るかというと、エゴと環境じゃなくて、その両者の関係をそのまま意識の下部方向に引き下ろすんです。そして別の形でシミュレートするわけです。それを書くとよくわかるんですね。これが僕にとっての物語の意味であるというふうに思う。ところが夏目漱石の時代は、こんなことをやってても誰もきっと感じなかったと思うんですよ。彼が描いたのは現実世界で実際に発生するエゴと環境の葛藤なわけです。それを当時の人はすごく新鮮なこととしてひしひし感じられたと思うんですよ。ところが今先生がおっしゃったように状況が急激に拡大して、例えばベトナムとかアフリカの問題とか、月に行くとか、ソ連がなくなっただとかエイズだとか、いろんな問題があまりにも多すぎる。情報とか選択肢が多すぎる。だから葛藤自体が多様化してそういうレベルでは物語がうまく語れなくなってしまったような気がするんです。」

情報が氾濫している時代では、あるものを、そのまま語っても普遍性を持たない。ゆえに、それを物語として意識の下のレベル方に引き落として別の形に変えて提示する=物語になる、というお話です。
また、参加者から「情報が氾濫している時代に、個人のコミュニケートが断絶しているように思う」という質問に対しては、以下のように返答されています。

村上「それは、一種の井戸の中にいるもんだというふうに僕は思ってるんです。自分の井戸があって、自分の中にずーっと入っていかざるをえないと。昨日も河合先生とお話してたんですけど、みんなが自分の井戸に入って、ほんとの底のほうまで行くと、ある種の通じ合いのようなものが成立するんじゃないかと僕は感じるんですよ。だから井戸の中に入ってるんなら、そこから出ようとしないで、どんどん掘っていけばいいんじゃないかと僕は逆に思うんですけどね。バリアがあって、壁に囲まれてどうしてもコミュニケートできないというのは、やはり意識の上のほうでの考え方じゃないかという気がする。ここまで来たんだからもっと掘ろうじゃないか、という考え方もあってもいいんじゃないかなと思いますね。
僕が小説で書こうとしてるのは、ほんとの底まで行って壁を抜けて、誰かと[存在]というものになってしまうのが一番理想的な形だと思うんです。でもこれは一種の感想であって、テキストはみんな平等ですからみんな好きに考えていただくといいけど、僕は自分の物語を通してそういうイメージを持っているということですね。」

井戸掘りをして、意識の下に降りてただの[存在]になってしまった時、常識や既成概念などの上辺の情報が取っ払われて、真の普遍性とか共感があるのではないかと思います。ただ、そのためには個人個人が井戸掘りをして、孤独と向き合ったり一度溢れる情報をシャットダウンしたりという作業が必要なのです。

この対談は「現代の物語とは何か」というタイトルで1994年にプリンストン大学で行われたのですが、それから20年を経て、現在流通している「物語消費」の物語とは随分隔たっているなという感想を持ちました。
物事や情報を咀嚼するために、意識の下の方に降りて別の形でシミュレートする「物語」ではなくて、より刺激的で分かりやすい上辺だけの記号を貼り付けて「物語」と名付けているだけなのです。

あまりのもコンビニエントな方向に流れる「物語」がある一方、本当の「物語」を求める動きもあるのだと思いますが。

 

良かったらTwitterフォローしてね
https://twitter.com/toriaezutorisan