月別アーカイブ: 2018年1月

雑誌メディアによる、ライフスタイルの啓蒙が終わった理由

恋も仕事も頑張るOLを啓蒙してきた、赤文字系ファッション誌


2000年代くらいまでは、雑誌メディアはライフスタイルを啓蒙し、それに啓蒙されて読者側もライフスタイルを形成していく時代が続いていたと思います。
例えば、Cancamであればコンサバ系OLとして仕事もそこそこ頑張りながら、恋も頑張る(だから、ファッションは男性の視点を大切に)っていうライフスタイルを啓蒙してきたと思うんですね。OLさんがよく読むこれ系の赤文字系雑誌の特徴として、30日着回しコーデみたいな特集がほぼ毎号ついてくるんですが、ファッションだけを見せるのではなくてライフスタイルとセット(そして主に恋愛面にスポットを当てる)の読み物になっています。
例えば月曜日のコーデは”後輩ののんちゃんと仕事終わりにバーへ繰り出す!素敵な男の人に声かけられちゃった。”とかいう見出しとともに、モデルのコーデを紹介しています。火曜日のコーデは”今日は大事なプレゼン。やる気がある日は、パンツスタイルで。”などと、書類を抱えているモデルのコーデが紹介されます。

このような感じでコーディネイトが紹介されていくのですが、全体のテーマとして「恋も仕事も頑張るOL」みたいなライフスタイルを啓蒙しているんですね。

雑誌ごとに読者層のペルソナが設定されているため、例えば光文社の「Mart」だったら”子供が数人。コストコに買い物に行きつつ、ルクルーゼでおもてなし料理を作る主婦”みたいなペルソナを設定し、そのペルソナに合わせたライフスタイルを啓蒙していると思うのです。(LEONだったら、年収何千万以上のちょい悪オヤジの啓蒙エトセトラ、エトセトラ。)

ライフスタイルの啓蒙に欠かせないインフルエンサーの存在


このように、雑誌というものは想定した読者のペルソナに合わせたライフスタイルを啓蒙し、読者もそれに感化されてきました。このしくみにおいて重要なのが、インフルエンサーの存在です。先ほどのCancamでいえば、雑誌の啓蒙するライフスタイルを実践するエビちゃんというモデルがいることにより、雑誌への信頼性が強くなるのです。

このように、インフルエンサーによってライフスタイルを実践する偶像を提示してきたのですが、今現在において、もはやライフスタイルを啓蒙する時代は終わったように感じています。それは、なぜでしょうか。

ライフスタイルの細分化と、個としてのインフルエンサー


ひとつには、ライフスタイルが細分化しすぎて、読者のペルソナがはまらなくなったということです。今の時代、働き方の種類や結婚をするしない、子供を持つ持たない、個人の経済状況にいたるまで、ライフスタイルが細分化しています。ある程度右肩上がりの経済成長があり、中央値をくくれる時代はペルソナが有用だったのですが、今の時代はペルソナを設定しようとしても、個人のライフスタイルや趣味嗜好が細分化しすぎているため、くくれなくなっているのです。

さらに、インスタやTwitterなどのインターネットサービスが台頭したことにより、個人のインフルエンサーがメディアの力を借りずとも力を持てるようになりました。雑誌メディアに醸成されたインフルエンサーと、個人で立つインフルエンサーには大きな違いがあります。個人で立つインフルエンサーは、誰からも啓蒙されずに自分を自分で売り込んでいる強いインフルエンサーであるということです。雑誌メディアに影響を受けていた読者は、メディアが啓蒙するライフスタイルに憧れ、それを体現するインフルエンサーにも憧れていた構図ですが、個人で立つインフルエンサーに惹かれるフォロワーは、個人が持つパワーそのものに惹かれています。

このように、雑誌メディアが長らく保ってきたライフスタイルの啓蒙と、それを体現するインフルエンサーを掲げるという手法が終わりを迎えたのではないかと思っています。
今後の雑誌含めたライフスタイル系のメディアの方向性については、思うところがあるのですが、それはまたの機会に書いてみたいと思います。

2018年現在において、ヒマであることの希少性

ヒマであるということは、小さな可能性に触れる機会が多いということ


2018年現在、だいたいの人は忙しいと思うんですね。その上で、ヒマであることは恥ずかしいと感じていると思うんですね。
さらに言うと、忙しいことがひとつのアイデンティティになっているケースも多いと思います。特に男性の場合は、会社への精神的なコミット具合が高いので、コミットメントを図るひとつの指標としての忙しさがあります。ゆえに忙しいということは、会社組織へのコミットメントが充足しているという状況だからです。

しかし、2018年現在においてヒマであるということは、実は希少性が高くて良いことなんじゃないでしょうか。

ヒマであることの第一のメリットとして、自分が興味を持った何かにふらっとコミットしやすいという点があります。誰かからライブに行こうとか何か誘われたとして「平日は電車あるうちに帰れないから無理」と断る必要がないので、ふらっと誘いに応じやすいのです。ヒマであるということは、自分がまだ出会っていない小さな可能性に触れられる前提状況を作っていることになります。
ライブに出かけてみて運命の音楽との出会いがあるかもしれませんし、日常に落ちている小さな可能性みたいなものをキャッチできる機会が多いんですね。

ヒマであることの第二のメリットとして、時間があるから自分への投資だったり好きなことに使う時間があるということがあります。忙しいと思索の時間が取れませんが、ヒマな場合は考えにふける時間が取れるので、今までの振り返りをしたり、これからのことを考える余裕があります。ヒマだったら、本を読む時間も確保できるでしょう。

ということで、ヒマであることはけっこうメリットがあると思っているのですが、タイトルを「2018年現在において」とわざわざつけているのは、ヒマであることに希少性があるのは、今だけなのではないかと思っているからです。
有史以来、人類は生きるために忙しい生活を送ってきたのだと思いますが、AIなどの到来によりAIが人の仕事を代替するなどと言われており、いよいよ総人類ヒマ社会というものが到来しそうな予感です。


ヒマ社会の到来と、ヒマ下手な日本人


そう遠くない将来に、人類がみなヒマになる時代が来るような気がしていますが、日本人はとてもヒマ下手なのではないかと思います。先ほどの組織へのコミットメントが強い云々のくだりもあり、ヒマであることに罪悪感すら感じてしまうからです。欧米にはバカンスといって長期的にぼーっとする、まさにヒマを作りにいく休暇制度がありますが、日本人は数日の有給休暇の取得すら罪悪感を感じてしまうのではないでしょうか。

ヒマになった人たちは何をするかといえば、ロシアの文豪の小説にそのヒントがあるように思います。トルストイの「アンナカレーニナ」を読むと、主人公の一人であるリョーヴィンは貴族の生まれなので、親族はみな有閑貴族です。貴族たちは毎日お茶をしながら、本を読んで哲学やらなんやらの高尚な議論をしています。
しかし、この本に登場する有閑貴族は、お金があり、かつ小さいころから高等な教育を受けてきたので哲学などを論争する下地があるのです。つまり、ロシア文学に登場するような貴族は、幼いころからヒマになるための準備をしてきたとも言えます。

そんな中、もし現代の日本人がヒマになったら、どうして良いか分からなくなるでしょう。さらに、ヒマになったことにより忙しさという心のよりどころが失われて、アイデンティティの危機を迎える人もいるかもしれません。
という状況の到来から逆算すると、2018年現在においてヒマであるということは、すでにその時代を迎える準備が出来ており、自分のアイデンティティの要となりそうな小さな可能性にリソースを渡せる状況にあるということになります。

ということで2018年現在の今、ヒマな人は希少性が高いとともに、時代を先取りしているとも言えます。人間、突然ヒマになってしまうと延々とインターネットを見つづけたり、ヒマを上手く扱うことが困難になるでしょう。来るべきヒマ時代に向けて、ヒマになる訓練をしておくべきなのかもしれません。

映画を「監督」で選ぶと、今より100倍楽しめる

映画好きな人には、好きな監督がて、好きな監督の映画をチェックするという人が多いです。考えてみると、料理は料理人の腕に左右されますし、映画が面白いか否かも監督の腕に左右されるんですが、あまり重視されてない気がします。なぜかというと、監督によって映画の良しあしが分かるようになるには、相当量の映画の本数を見て、自分の中で好みのマッピングが出来ないと判断しづらいからなのです。

ということで、こういう好みの人には、この監督の映画がおススメというのをご紹介してみます。

大人のファンタジーやティム・バートン作品が好きな人に ~ウェス・アンダーソン~

作品に登場するカワイイホテルは、ミニチュアで作られたもの「グランド・ブダペスト・ホテル」

ティム・バートンの時点で監督名なのですが、ティム・バートンといえば「チャーリーとチョコレート工場」などヒット作品を多数輩出しているフィルムメイカーです。昔からファンタジー作品を多く扱ってきたのですが、このへんのファンタジーが好きな人に薦めたい監督がウェス・アンダーソンです。

「ダージリン急行」や「ムーンライズ・キングダム」あたりが有名ですが、彼が発表する映画の大半はファンタジーに彩られた映画でありつつ、かなりのブラックユーモアを含みます。しかし、映像がポップでカワイイキャンディカラーに彩られていたりと、映画美術にもこだわりがあるため、ブラックユーモアがどこかシニカルに映るんですね。終始クスっとしながらも、家族の問題だったり、映画内にちゃんとテーマがあるのがポイントです。
(そういえば、ティム・バートンも映画「ビッグ・フィッシュ」で、はじめて100%のファンタジーではなく、父親との確執というリアルな題材を取り入れています。)

映像がオシャレなので、かわいいオシャレ映画を観たい場合は「ムーンライズ・キングダム」や「グランド・ブダペスト・ホテル」あたりがおすすめです。

マカロンカラーのガールズムービーが観たい人に ~ソフィア・コッポラ~

岡崎京子好きにおすすめしたい「ヴァージン・スーサイズ」

ハリウッドの中でも、それほどメジャーではない映画のカテゴリとして、ガールズムービーというものがありました。今では、ほとんど見られなくなりましたが、女子による女子のための映画です。その中でも、サブカルに傾倒している女子向けなのがソフィア・コッポラの映画です。「マリー・アントワネット」は、マカロンタワーが登場するガールズムービーの元祖といった感じで、中世のフランスを舞台にしているのに、音楽にロックや現代ポップスを使っていてすごくオシャレなんですね。音楽にこだわりがあるのもソフィア・コッポラの特徴で、東京を舞台にした映画「ロスト・イン・トランスレーション」では、はっぴいえんどの「風をあつめて」が使われています。
ちなみにソフィア・コッポラの処女監督作である「ヴァージン・スーサイズ」はその名の通り5人姉妹が自殺する話なのですが、岡崎京子の漫画が好きな人たちにハマるんじゃないかなあと思います。すごく静かでオシャレな映画です。

アクションとバイオレンスに溢れたザ・映画を観たい人に ~クエンティン・タランティーノ~

ここ数十年の中でも指折りの名作「パルプ・フィクション」

「キル・ビル」などで知られる監督ですが、すでにアメリカでは巨匠扱いされている気がします。タランティーノ作品の特徴は、底が厚いことなんですね。彼の作品を観たことがなくても、ふつうにバイオレンスに溢れたアクション映画(昔の作品はけっこうエログロあり)として楽しめます。
さらに深く映画を観ると、タランティーノは生粋の映画オタクだったため、60年代から70年代の映画のムーブメントを切り取って自分の作品に詰め込むのがけっこう好きで、その集大成が「キル・ビル」だったりします。映画を観ていると、謎に中国のカンフー映画のテイストが入り込んできたりして面白いです。ちなみに私が一番名作だと思う「パルプ・フィクション」には、小ネタがたくさん散りばめられつつも、映画の構成が斬新で最後ハッとさせられる人間ドラマがあります。

救いのない終わり系の漫画や映画が好きな人に ~ミヒャエル・ハネケ&パク・チャヌク~

きれいすぎる映像とエグい内容がうらはらな「オールド・ボーイ」

最近電子コミックなどでも救いのない終わり系の漫画がたくさんありますが、この2人のフィルム・メイカーは救いのない映画を割と作る人たちです。ミヒャエル・ハネケ監督は「ファニー・ゲーム」というハリウッドでもリメイクされた作品を作っています。湖畔の別荘で休暇を楽しんでいた家族に忍び寄る、男たちとの一夜を描いた映画です。過去に監督のインタビューを見た時に「自分にとって映画はエンタテイメントではない」と言ってたので、あまり観客のことは気にせずアートとして作ってるのでしょうね。

一方のパク・チャヌク監督は韓国の監督さんですが「オールド・ボーイ」などの映画で知られています。「オールド・ボーイ」は15年間監禁された後に突如開放された男の話なのですが、息が詰まりそうなストーリーの割に映像がめちゃくちゃ綺麗で、映像の切り取り方がとても面白いので、見ていて引き込まれます。映像がきれいだし、話にも切迫したものがあるので、ぐいぐい見させられているうちに、最後に衝撃のなんぞが待ち受けている・・・。そんな作品です。
この「オールド・ボーイ」を始めとする復讐三部作ー「親切なクムジャさん」「復讐者に憐れみを」は、すごく人のイヤーなところを突いてくる演出の数々ですが、映像が綺麗なので見れてしまうんですね。

疲れているから頭を空っぽにして、ただのハリウッド映画を観たい~ニコラス・ケイジの出ている映画~

観ていないがたぶんいつもニコケイ映画「ゴースト・ライダー」

最後の最後で監督の名前ではなくて急に俳優のニコラス・ケイジが出てくるのですが、誰しも疲れていて頭を使いたくない時があると思います。そんな時におすすめなのが、ニコラス・ケイジが出ている映画です。ニコケイ映画というカテゴリを作ってもいいなと思うくらい、ニコラス・ケイジが出ている映画はおしなべて65点くらいの面白さです。(100点満点で面白い映画を観るとアドレナリンが出て疲れるので、65点くらいの温度低めのエンタメ映画が疲労回復には良いのです。)
ちなみに、ジャスト65点という感じでオススメしておきたいのが「ゴースト・ライダー」です。映画を観ていませんが、チラシの感じから察するに、いつものニコラス・ケイジによる65点くらいのエンタメ映画に間違いないでしょう。

ということで4人の監督と、一人の俳優の映画をおすすめしてみました。

WEB広告を出稿する前後にやっておくべきこと6点

WEB広告をなんとなく出稿てしまって、結果が良かったのか悪かったのかがふんわりしていることが多いと思います。WEB広告を出稿する前と、その後にやっておくべきことを解説します。

出稿前にやっておくべきこと

■1 顧客あたりの広告予算を決めておく

広告を出稿した後は、費用対効果を分析する必要があるので、まず顧客ひとりにかけられる広告予算を設定します。saasなどのサブスクリプションのサービスであれば、1人あたりの顧客が生み出す収益を割り出し、そこから原価と利益を引いた額の何割かを広告予算に割り当てて良いと言うことになります。

▼saasなどのサブスクリプションサービスにおける1顧客あたりの広告予算
下記を割り出した上で販売管理費のうち、1顧客にかける広告予算を決定する。

LTV(顧客あたりの月額売上÷月間退会率)ー1人あたりにかかる原価=1人あたりの販売管理費+利益
→広告費は販売管理費に含まれるため、販売管理費から広告予算を按分する。

■2 カスタマージャーニーから広告フローを作成する

カスタマージャーニーというのは、顧客が商品の購入に至るまでの思考、行動、感情などをモデル化したものです。ユーザーへのインタビューなどを通して作成します。例えば旅行代理店であれば、旅行への申し込みをするまでのユーザーの行動をモデル化します。例えば、ユーザーが旅行に行く前には「〇〇(目的地) 格安」といったクエリで検索するという情報が得られれば、広告においてはリスティング広告が必須だということが分かり、さらに有効な検索クエリへの手がかりも得られることになります。

カスタマージャーニーは顧客のペルソナごとに何種類か作成することをおすすめします。その上で、最終的に広告フローを作成します。商材によっては、直接コンバージョンに影響しなくても、認知のみを取る広告を組み合わせる必要がある場合があります。(主に不動産や車などの高価格商材が当てはまります。)
認知を取る広告、認知後の顧客を誘導する広告、コンバージョンに直接影響する広告など、AISASのモデルに沿って広告をフロー化していきます。

カスタマージャーニーで得られた顧客とのタッチポイントを整理した上で、広告フローに落とし込み、認知獲得の広告にいくらかけるか、コンバージョンに繋がる広告にいくらかけるかを割り振ります。

ただし、このステップについては、特に顧客単価が高い商材について有効なので、商材が数千円程度の化粧品であったりした場合は、簡易にやって良いステップだと思います。

■3 広告代理店に委託するか判断する

自前で広告を運用するか、それとも広告代理店に委託するかを判断します。自前で運用する場合は、自社にノウハウは溜まるというメリットはありますが、人材をアサインする必要があるのと、ノウハウが溜まるまでにトライ&エラーが生じるというデメリットがあります。代理店に委託した場合は、運用人材はアサインしなくても良くなり、短期間で効果が出やすいというメリットがありますが、自社に細かいノウハウは溜まりづらい、代理店フィーが出稿額の15~30%程度かかるというデメリットがあります。

また、広告代理店に委託する場合はミニマムの出稿金額が決められているため、月額の出稿金額が100万円に満たない場合は、自前ではじめられることをおすすめします。

■4 広告流入ごとの成約(コンバージョン)が計測できる設定をしておく

意外と広告流入ごとの成約(コンバージョン)を計測していないケースがあります。アプリプロモーションの場合は、広告代理店に委託すると、自動的にadjustなどのコンバージョンが計測できるツールの導入前提で出稿することが多いのですが、WEBプロモーションの場合はアナリティクスなどの計測ツールにて、コンバージョン設定を自社で行わなければなりません。
例えばダイレクトレスポンス系の商材であれば、申込完了ページにコンバージョンを設定しておきます。そして、WEB広告への出稿URLに流入先を判別するためのUTMパラメータを付与することにより、コンバージョンに到達したユーザーの流入元が分かります。

出稿後にやっておくべきこと

■5 広告レポートの把握と次回アクションの設定

出稿が完了したら、広告レポートの把握と次回アクションの設定をする必要があります。チェックポイントとアクションは下記の通りです。
  • 広告ごとのコンバージョン件数を割り出し、広告ごとの獲得単価を計算
    (ただし、広告モデル作成時に認知を取るために指定していた広告はそもそもKPIがコンバージョンではなくて閲覧数などになるため、この限りではない。)
  • 広告ごとの獲得単価が、顧客あたりの広告予算を超えていないかチェックする
  • 広告ごとのインプレッションやCTR(クリック率)を計測して、広告クリエイティブの最適化を行う
    →代理店に委託している場合は、この点のレポートや提案をもらうことが出来ます。
  • 上記の結果から広告予算の再調整や、ランディングページの改修、クリエイティブ最適化などを行う。

■6 広告流入ごとのユーザーの継続率を計測する

saasなど顧客の継続率が重要な商材の場合は、広告流入ごとにユーザーの継続率を数か月単位で追った上で、予算を再分配した方が効率的な場合があります。単月で見て顧客あたりの単価が安く抑えられていたとしても、他の広告に比べて解約が早ければ、結果的に一件単価が高く見える他の広告の方が効率が良くなるからです。

コンバージョンの前提が会員登録である場合は、登録時に広告パラメータを会員データベースに紐づけて、広告ごとの退会率を取れるようにするのがベストです。特に会員登録がなく、単純にサイトへの再訪という観点での継続率を取りたい場合は、アナリティクスで集計するには以下の2つの方法があります。

1.コホート分析
2.UTMパラメータにてセグメント設定を行い、当該期間におけるユーザー数とセッション数の割合を見る

1番目のコホート分析は、UTMパラメータで設定しておいた広告経由ごとの継続率が見られます。2番目はUTMパラメータでセグメント設定をしておき、当該期間にてユーザー数とセッション数を比べるとどの程度のユーザーが再訪しているかが分かります。例えば広告A経由のセグメント設定をしたとして、このセグメントにおける3か月のユーザー数が1,000、セッション数が3,000とすると、1ユーザーにつき平均3回訪問していることになります。

ということで、WEB広告を出稿する前と後にやっておくべきことでした。

落語とミステリー小説が似ている理由

ミステリーの叙述トリックのごとく、情報を欠落させる落語

落語家の立川志の輔さんの新春落語を観に行ったのですが、はじめて落語を観たんですね。そして、大変に面白かったのですが、立川志の輔さんが「落語って不思議なもので、実態がないんですよ。舞台装置もなくて、人も一人しかいない。じゃあ実態はどこにあるのかってお客さんの頭の中にしかない。」っていう話をされていて、確かにそうだなと思いました。

落語は派手な舞台美術もなく、落語家さんが一人で座布団の上に座って、話をするだけなんですね。だから、落語という芸能において、コンテンツはどこに存在するのかと言われると、お客さんの頭の中にあります。
落語のしくみは、落語家さんが話の情報をわざと欠落させた上で、お客さんの想像の裏をかいて笑わせるというものです。立川志の輔さんの落語のワンシーンでこんなものがありました。

「先生、最近毎朝コーヒーを飲むたびに目が痛いんです。そんな病気あるんでしょうか。」
「コーヒーを飲んで目が痛い?どれ、毎朝どんな感じでコーヒーを飲んでいるか、ここでやってみてください。はー、なるほど、コーヒーカップに、コーヒーの粉を入れて、お湯を注いで、かきまぜて、飲む、飲む、飲む・・・。ってあなた、原因が分かりましたよ。」
「原因が分かったんですか?」
「そりゃ、目が痛くなりますよ。あなた、コーヒーを飲むときは、スプーンを取って飲みなさいよ。」

ということで、オチはコーヒーカップをかきまぜたスプーンを取らないから、それが飲むときに目に刺さっていたということなんですね。ここで興味深いのは、ミステリーの叙述トリックのごとく、さりげなくコーヒーをかきまぜるという表現によってスプーンの存在を示唆するものの、明示はしてないんですね。コーヒーを飲んでいる人の情景を見ている側(先生)が描写することによって、観客はこういう風に飲んでいるんだろうなという情景を想像するようになります。
観客の想像の中ではコーヒーのスプーンという存在は欠落しており、最後の先生の一言のせいで、自分の想像の中にコーヒースプーンが目に刺さっているという状況が足りなかったことに気づき、その意外性の落差によって笑いが生まれるのです。

ということで、落語はあえて「言わない、見せない」ことによって、観客の想像力にゆだねて、最後のオチでその想像の裏をかいて意外性で笑わせるという構図になっています。

コンテンツが明示して存在しないことにより、お客さんの頭の中にコンテンツが生まれるのです。

落語は演者が一人、小道具もセンスと手ぬぐいだけ、さらに演者はざぶとんに座っているので上半身のアクションしか取れないという、究極にコンテンツが省かれた演芸です。逆にいうと、その分お客さんの想像という余白が入る余地が大きいので、そこに笑いが生まれる余地があるということになります。

これに、下半身の動きを加えて演者をもう一人増やすことにより、表現領域が広がったものが漫才とかコントなのだと思います。

小説なども同じく、あえてコンテンツの箇所を抜いて余白を作ることにより、読み手に想像させるという作りになっています。例えばこのような文章があったとします。

A氏はエレベーターに乗り込むと5階へ向かうボタンを2、3度連打した。エレベーターのドアは朝晩開閉されるお城の門のように、重々しく締まった。A氏は3分前にも眺めた腕時計に再び視線を落とした。エレベーターの乗降スピードはまるで亀の歩みのように感じられた。

この文章中には、A氏は急いでいてイライラしている。という直接的な表現はありませんが、A氏のしぐさや比喩の表現により、A氏が急いでいてイライラしている情景を想像することが出来るのです。

こういった表現からA氏の心情を察することは文脈を読む力であり、国語のテストでも「A氏のこの時の気持ちを次の4つから選べ」みたいな問題が出てきます。

ちなみに、前にも日本人は特に言葉遊び好きで文脈を読むことに長けているというブログを書いたことがあるのですが、近年は文脈を紡がないでそのまま描写するコンテンツが増えてきているように思います。ライトノベルや電子コミックで人気の漫画などを見ると、読者の想像にゆだねる余白はなくて、全てを書き切っている、イメージです。主人公が悲しい時は主人公に悲しいと言わせ、くやしいときはくやしいと言わせるんですね。

落語のようにコンテンツの引き算(余白)がない場合は、コンテンツの強さそのもので表現することになり、過激な方向に進む傾向があるように思います。電子コミックの人気タイトルもデスゲームとかグロなどの、存在自体が強いコンテンツになっていると思うのです。食べ物に例えると落語はだしをひいたおすまし、電子コミックは豚の背油が入ったラーメンでしょうか。

ということで、コンテンツを100%表現しきるか、あるいは表現を間引くことによりお客さんの頭の中に存在させるのかというお話でした。