日別アーカイブ: 2015年1月1日

強い「言葉」が横行する世界について

言葉そのものだけで、強い言葉というのがあります。

例えば「死ね」とか「殺す」とか、そういうった言葉は、それ単体で強い力を持っています。
この強い力というのは、言葉の意味と響きが持つインパクトという意味と、他人に向けた攻撃力がすごいという意味でもあります。

昔の人は、言霊とはよく言ったものだと思うもので、こういう強い力を持った言葉にぶつかると、
その日いちにち嫌な気持ちになったりしますね。

お笑い芸人、ラーメンズの小林さんが昔、自分たちの演劇の中では極力強い力を持った言葉を
使わない。表現によってどう印象づけるかを考えるみたいなことを言っていました。

強い言葉を多用するというのは、便所の落書きであったり小さい子供がうんこ、などと下の言葉を連呼するのと同義であったりします。

言葉そのものは、強い力を持たないけれど、言葉と言葉を紡いで行くことで背景にある文脈を共有することが芸術というものなのかなと思ったりします。
例えば、こういう文章があったとして

“田所は、向かいに腰をかけた赤い帽子の女性を見た。先ほどから、彼女はしきりに腕時計に目を向けている。
彼女は手を上げてアイスティーを注文する。手元のカップには、半分以上コーヒーが残っているというのに。
赤い帽子の女性は、トイレに立った。背後にある掛け時計に目をやる。もちろん、腕時計よりも時間が進んでいるはずはない。”

この文章の中で、赤い帽子の女性が「焦っている」という表現はないのですが、情景の描写から女性が焦って時間を気にしているのではないかという気がしてきます。
それは、文章を読む際に、言葉と言葉の前後にある文脈を読み取っているからです。文脈を読み取るということは、人によっては解釈が異なる場合があります。ダイレクトに強い言葉を使わないことにより、物語は読み方が幾層にも広がるのです。
(優れた書き手はあらかじめそれを想定して、物語を描くことが出来ます。例えば、宮崎駿の「風立ちぬ」は、悲恋の物語として観ることも出来ますし、大量殺戮兵器としての飛行機を生み出してしまう芸術家の残酷さと読むこともできます。)

つまり、1つの作品があっても、10通りの解釈が可能になったりするわけですが、最近は強い言葉を使った解釈が1つだけの作品が増えている気がします。
例えば、携帯小説に登場しがちなのがレイプ、妊娠、中絶などです。あるいは、残酷でグロい描写です。いずれも事象や単語そのものが強い力を持っていて、書いてある通りの意味しか取れません。

まみこは、たけしが帰ってきたので嬉しくて泣いた。

という風に、解釈が1通りだけの文章で構成されています。コンテンツ量の増大や、細分化などの要因が絡まっているように思いますが、なんだか強い言葉で構成されたコンテンツが増えたなぁと思うこのごろです。