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その他の話題

「孤独のグルメ」や散歩番組のヒットの背景ある、みんな疲れてる現象

2000年代に入ってから人気となった「孤独のグルメ」。好調な散歩番組。

ドラマのシーズン5が放送され、視聴率が1%代から2%代になったという「孤独のグルメ」ですが、90年代に連載をしていた時は3刷で絶版になるなど、まったくだったようです。2000年代に入り、文庫版が発売されてからは増刷が年に2回づつかかるようになり、2015年に第2巻が発売(なんと1巻から18年ぶり)されました。
また、「孤独のグルメ」の原作者、久住さんが手がけるグルメ漫画「花のズボラ飯」も好調で、累計発行部数は60万部に達しています。
さらには「おとりよせ王子 飯田好実」なんていう、26歳の青年エンジニアがお取り寄せグルメを楽しむという漫画もあり、こちらもドラマ化されています。
これらの漫画に共通するのが「ただひたすら、主人公が素朴なグルメを食す」ことにスポットを当てているという点です。ひたすら主人公が目の前のグルメ(高級ではない)を食べるシーンを綴っているのです。「食べること」ことに焦点をあてた、非常にプリミティブな構成となっています。
“ただ○○しているところを写し続ける”という意味でいうと、散歩番組も好調です。出演者たちが散歩している様を放送する番組が多くなっています。「正直さんぽ」や「モヤモヤさまぁ~ず2」に加え、加山雄三の「ゆうゆう散歩」の後継番組「じゅん散歩」も始まりました。
これらの番組に共通しているのは、視聴者が何も考えずに、番組に登場する人たちの追体験をするような構成になっているということです。

スマートホンによって、集中力が細切れに分散

90年代あたりのテレビ番組を振り返ると、過剰な番組が多かったように思います。熱湯芸人が悲惨な目に合うお笑いや、強気なおばさんタレントがホストをつるし上げたりと、えげつない演出も多数ありました。
しかし、現在ヒットしている番組を見ると「ただ○○しているところを単調に放送する」という素朴な構成がウケているのです。
背景のひとつとして、みんな疲れているのではないかなと思います。2010年以降はスマートフォン時代になり、色々なものが細分化されました。情報もTwitterでつぶやけるコンテンツに細切れにされ、スマホをいじる時間も数分単位と細かく区切りられ、ソーシャルゲームは1駅間に1ターンが終わるように設計されています。
先日深夜0時の駅のホームで回りを見渡してみたのですが、7割の人がスマートフォンを触ってうつむいた状態でした。しかも、LINEを立ち上げてメッセージを返したり、Twitterでメンションを確認したり、Facebookで友達の投稿をみたりと、1つの作業を数分、いや数秒単位で行っています。
ひたすらスマートフォンに来る通知を気にして、私たちの集中力は細切れにされて、慢性的に神経過敏状態にあるのではないかという気すらします。
一方、テレビはスマホに比べたら受動的に長尺のコンテンツを楽しむメディアです。そこの人気コンテンツとして、プリミティブで淡々としたものがウケているというのは、人々の神経が疲れている反動のような気がしてしまうのです。
出典
http://www.jprime.jp/tv_net/tv/19641
 

強い「言葉」が横行する世界について

言葉そのものだけで、強い言葉というのがあります。

例えば「死ね」とか「殺す」とか、そういうった言葉は、それ単体で強い力を持っています。
この強い力というのは、言葉の意味と響きが持つインパクトという意味と、他人に向けた攻撃力がすごいという意味でもあります。

昔の人は、言霊とはよく言ったものだと思うもので、こういう強い力を持った言葉にぶつかると、
その日いちにち嫌な気持ちになったりしますね。

お笑い芸人、ラーメンズの小林さんが昔、自分たちの演劇の中では極力強い力を持った言葉を
使わない。表現によってどう印象づけるかを考えるみたいなことを言っていました。

強い言葉を多用するというのは、便所の落書きであったり小さい子供がうんこ、などと下の言葉を連呼するのと同義であったりします。

言葉そのものは、強い力を持たないけれど、言葉と言葉を紡いで行くことで背景にある文脈を共有することが芸術というものなのかなと思ったりします。
例えば、こういう文章があったとして

“田所は、向かいに腰をかけた赤い帽子の女性を見た。先ほどから、彼女はしきりに腕時計に目を向けている。
彼女は手を上げてアイスティーを注文する。手元のカップには、半分以上コーヒーが残っているというのに。
赤い帽子の女性は、トイレに立った。背後にある掛け時計に目をやる。もちろん、腕時計よりも時間が進んでいるはずはない。”

この文章の中で、赤い帽子の女性が「焦っている」という表現はないのですが、情景の描写から女性が焦って時間を気にしているのではないかという気がしてきます。
それは、文章を読む際に、言葉と言葉の前後にある文脈を読み取っているからです。文脈を読み取るということは、人によっては解釈が異なる場合があります。ダイレクトに強い言葉を使わないことにより、物語は読み方が幾層にも広がるのです。
(優れた書き手はあらかじめそれを想定して、物語を描くことが出来ます。例えば、宮崎駿の「風立ちぬ」は、悲恋の物語として観ることも出来ますし、大量殺戮兵器としての飛行機を生み出してしまう芸術家の残酷さと読むこともできます。)

つまり、1つの作品があっても、10通りの解釈が可能になったりするわけですが、最近は強い言葉を使った解釈が1つだけの作品が増えている気がします。
例えば、携帯小説に登場しがちなのがレイプ、妊娠、中絶などです。あるいは、残酷でグロい描写です。いずれも事象や単語そのものが強い力を持っていて、書いてある通りの意味しか取れません。

まみこは、たけしが帰ってきたので嬉しくて泣いた。

という風に、解釈が1通りだけの文章で構成されています。コンテンツ量の増大や、細分化などの要因が絡まっているように思いますが、なんだか強い言葉で構成されたコンテンツが増えたなぁと思うこのごろです。

女性誌のウソばかりと、小悪魔agehaの誠実さ

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ウソはついてないけど、本当のことも言ってない

雑誌を立ち読みするのが好きなので、週に2回は本屋さんに行きます。そして、女性誌やら男性誌やら経済誌やらを節操なく上から下へと手にとってパラパラしてみるのですが、雑誌を見ていると、ウソとは言わないまでも本当のことではないことが結構載っています。

例えば、あるコーディネイトが載っていました。ベージュのタイトスカートに白いシャツ、白い靴下にベージュのラウンドトゥのパンプスを履いている写真です。そこに、ショッキングピンクのカーデを羽織って、ビビッドな指し色の着こなしみたいなことになってました。しかし、最近はもう暑いので、シャツを着ていたらカーディガンを着るのは無理だと思うのです。しかし、ピンクのカーデを抜いてしまうと、ベージュと白で構成されたぼんやりしたコーデだと思うんですよ。(これをまたペールトーンコーデとか言っちゃうわけですが、似合うのは細身のスタイルよい人限定だったり・・・)
ということは、ファッションのために我慢してカーディガンを着るか、肩に巻くかですが、ちょっと年齢層が高めの場合は肩巻きは危険かと思うのです。

ということで、ウソとは言わないけれど、それって実用なのかというのが結構あります。

雑誌の誠実が試されるヘアアレンジ特集

一番多いのがヘアアレンジ。何故かと言えば、紙面のスペースが限られているので、よく見ると行程を省略したなというのが割とたくさんあるんですね。例えば、前髪付近のサイドの髪を垂らした無造作なポニーテールヘアがあったのですが、前髪付近のサイドをあらかじめ選り分けておく行程が載っていません。ヘアアレンジに慣れた人なら完成図を見れば推測できますが、初心者は「なんでこの通りやったのに、こうならないんだろう」現象が起こります。

こういうのって、10人が同じ誌面を見ても9人はほとんど気づかないのです。ヘアアレンジも、実際にやってみようと思った人だけが気づいてしまう。でも、紙面を作ってる側は、確実に分かっててやってると思うんですよね。かくいう私も経験があります。バレンタイン特集と称して、ハート形のチョコレートケーキのレシピを載せました。しかし、実際やってみると、ハートの型から外すのが存外に難しい。そのへんに置いてあったヘラみたいな物を駆使して外したのですが、ヘラでこそげとる写真は、絵的に美しくない。だから、掲載用にスムーズにそのまま外れている写真を撮るわけです。

見ている人に対して丁寧に説明するのであれば、ここは外れやすいから注意!みたいな注意書きを加えて、実際にどう外せば良いかを注釈するべきなのです。
メディアを編集している人は「この説明を入れないと分かりにくいけど、まあいいや」となってしまった経験があるのではないでしょうか。

逆に、すごく手抜きをしていなくてスゴいなと思った雑誌がありました。廃刊してしまいましたが「小悪魔ageha」です。雑誌が雑誌だけに、ヘアアレンジなどはコテを駆使するすごく複雑なものなのですが、行程を省かずに丁寧に説明してあるなと思いました。全盛期には月間30万部を誇ったそうですが、名物編集長としてフィーチャーされていた中條さんのインタビューを見ても、ああ、本当に雑誌を作るのが好きなんだなぁと思いました。

「小悪魔ageha」が売れた時、その要因をマーケティング的に分析した記事をいくつか見た気がしますが、実際は「誠実にちゃんとやってるから」という、それに帰結する気がします。

この誠実な紙面作りが、見てくれてる読者との信頼関係を築くのです。成功しているメディアを語る時、ニッチなターゲットがいたとか、外部要因に論拠を求めがちなのですが、土台はこの誠実さにつきるのではないでしょうか。NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀を」見てても思うのですが、プロとアマの境界線って、パッと見分からないその1%に気持ちを入れられるかということだと思います。自戒も込めてですが。

普遍性を持つ物語

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物語を求める消費者と提供するメディア

最近、ワイドショー的ネタに事欠かないようですが、こんな記事を見つけました。

フィギュアスケートの羽生結弦さんも理系女子の小保方さんも「現代のベートーベン」も、みんな同じだ。

人々は物語を求めていて、佐村河内さんであれば「耳が聴こえない」作曲家であり、小保方さんであれば「割烹着を着たリケジョ」というバックグランドに重きを置いて報道され、人々はその情報を咀嚼しているということです。

人間が感動をしたり共感するシチュエーションというのは、とても普遍的なものだと思うんですね。逆境に立ち向かうとか、大きなギャップがあるとか。そして、今の情報社会はそういった普遍的な物語を欲していて、常にそういったシチュエーションに当てはめよう当てはめようとしてるんだと思います。言い方を変えると、逆に消費する側もそういう分かりやすい普遍的な物語を求めてるんですよね。

すこし話は逸れますが、最近ソーシャルでバズったネタを集めるポータルサイトが話題になっていて、海外の有名メディアが日本にも上陸したようです。こういったメディアもまた「可愛い猫の画像」とか「感動できる一枚の写真」とか万人が消費できる普遍的な物を探してるんですね。

立川談志さんが言うお笑いの共感

お笑いもまた、普遍的ということがキーになるコンテンツです。爆笑問題などが昔よくやっていましたが、時事ネタを扱う漫才があります。そのときのニュース(今だったら間違いなく佐村河内さんでしょうね)を引っ張りだして、いじくるわけです。みんなの頭の中にある共通の情報を刺激して普遍化するわけです。

お笑いには、そういう王道漫才に対して、シュールというジャンルがあります。昔、お笑いネタ見せ番組を見ていて特別審査員に立川談志さんがいたのですが、特別賞をラーメンズに授与していました。ラーメンズは王道から遠く離れたどちらかといえばシュールなコントで有名ですが、そのときの談志さんのコメントがこんな感じでした。

「誰もが知っている常識を共感の道具として持ってくることは簡単なのだけど、ラーメンズは人間の無意識化のところで共感を作りだしている」

時事ネタというのは、誰にでも理解できる情報であり、普遍的に共感を誘えるのです。しかし、シュールなコントは受け取り側に何のベースの知識もありません。なぜ常識的な共通項がないコントが普遍性を持つのでしょうか。

作家の村上春樹さんが考える物語

作家の村上春樹さんの作品は世界中で読まれており、日本を代表する作家です。しかし、彼の作品は日本を舞台にしており、日本人が主人公です。海外が舞台なわけでも、最初から英語という共通言語で書かれているわけでもありません。精神科の故河合隼雄先生の対談集「こころの声を聴く」の中で、村上春樹さんが以下のようなやり取りをされております。

村上「僕が物語を小説で書いてて思うのは、結局のところそれはシミュレーションなわけですね。疑似ゲームなんです。例えば自我と環境との間でいろいろ葛藤がありますね。ところがそれを書いても誰も納得できないんです。僕が例えば河合先生と喧嘩をする。で、頭に来る。これを誰か他人に説明しようとしても、僕の怒りというのはそのまま正確には伝わらない。何が伝わるかというと、なんか村上が怒っていたと、それしか伝わらない。僕がどれぐらい怒っていたかというのは伝わらないんですよ。」

河合「そのとおりです。」

村上「それをどう物語るかというと、エゴと環境じゃなくて、その両者の関係をそのまま意識の下部方向に引き下ろすんです。そして別の形でシミュレートするわけです。それを書くとよくわかるんですね。これが僕にとっての物語の意味であるというふうに思う。ところが夏目漱石の時代は、こんなことをやってても誰もきっと感じなかったと思うんですよ。彼が描いたのは現実世界で実際に発生するエゴと環境の葛藤なわけです。それを当時の人はすごく新鮮なこととしてひしひし感じられたと思うんですよ。ところが今先生がおっしゃったように状況が急激に拡大して、例えばベトナムとかアフリカの問題とか、月に行くとか、ソ連がなくなっただとかエイズだとか、いろんな問題があまりにも多すぎる。情報とか選択肢が多すぎる。だから葛藤自体が多様化してそういうレベルでは物語がうまく語れなくなってしまったような気がするんです。」

情報が氾濫している時代では、あるものを、そのまま語っても普遍性を持たない。ゆえに、それを物語として意識の下のレベル方に引き落として別の形に変えて提示する=物語になる、というお話です。
また、参加者から「情報が氾濫している時代に、個人のコミュニケートが断絶しているように思う」という質問に対しては、以下のように返答されています。

村上「それは、一種の井戸の中にいるもんだというふうに僕は思ってるんです。自分の井戸があって、自分の中にずーっと入っていかざるをえないと。昨日も河合先生とお話してたんですけど、みんなが自分の井戸に入って、ほんとの底のほうまで行くと、ある種の通じ合いのようなものが成立するんじゃないかと僕は感じるんですよ。だから井戸の中に入ってるんなら、そこから出ようとしないで、どんどん掘っていけばいいんじゃないかと僕は逆に思うんですけどね。バリアがあって、壁に囲まれてどうしてもコミュニケートできないというのは、やはり意識の上のほうでの考え方じゃないかという気がする。ここまで来たんだからもっと掘ろうじゃないか、という考え方もあってもいいんじゃないかなと思いますね。
僕が小説で書こうとしてるのは、ほんとの底まで行って壁を抜けて、誰かと[存在]というものになってしまうのが一番理想的な形だと思うんです。でもこれは一種の感想であって、テキストはみんな平等ですからみんな好きに考えていただくといいけど、僕は自分の物語を通してそういうイメージを持っているということですね。」

井戸掘りをして、意識の下に降りてただの[存在]になってしまった時、常識や既成概念などの上辺の情報が取っ払われて、真の普遍性とか共感があるのではないかと思います。ただ、そのためには個人個人が井戸掘りをして、孤独と向き合ったり一度溢れる情報をシャットダウンしたりという作業が必要なのです。

この対談は「現代の物語とは何か」というタイトルで1994年にプリンストン大学で行われたのですが、それから20年を経て、現在流通している「物語消費」の物語とは随分隔たっているなという感想を持ちました。
物事や情報を咀嚼するために、意識の下の方に降りて別の形でシミュレートする「物語」ではなくて、より刺激的で分かりやすい上辺だけの記号を貼り付けて「物語」と名付けているだけなのです。

あまりのもコンビニエントな方向に流れる「物語」がある一方、本当の「物語」を求める動きもあるのだと思いますが。

 

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日常と非日常のあいだ「ちょっとした特別感」消費

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本当の日常は、ソーシャルにあがらない

ある時、みんなのソーシャル上のつぶやきを見たら、日常生活の行動パターンとか生活導線の参考になるかと思い、見てみたんですね。その時に気づいたのですが、日常ってソーシャルに上がってないのです。ソーシャル上にあがるのは、ちょっとした「非日常」なのです。ちょっとしたプレゼントをもらったり、特別な経験をしたり、ごちそうを食べたりした時に、ソーシャル上にアップしているのです。

たとえば、みんなスタバなうってつぶやきますが、ドトールなうとは言わない。それは、スタバがちょっと特別なものだと、とらえられているからです。

その時にふと思ったのですが、最近の消費行動の多くは「日常の中のちょっとした特別」に集約されている気がします。例えばスタバもそうですが、コンビニなどでもプレミアム○○といった少し値段が張る高品質な商品が売られています。「お願いランキング」とか「シルシルミシル」って、企業が出すちょい特別な商品の裏側を解説していることが多いですよね。なので「日常のちょっとした特別」というのを演出できてる企業は強いのではないかと。スターバックスは「家と職場の中間に位置する第3の場所となる」というミッションを掲げていて、完全にこのテーマに合致していると思うのですが、日本の飲食だとサーティーワンあたりが、めちゃくちゃ上手い気がします。
コーンに乗った丸いアイスって、古代の肉と同様、幼少時の憧れですが、トリブルのアイスに挑戦する「チャレンジ・ザ・トリブル」やキングサイズのアイスの上にキッズサイズのアイスを乗せた「真夏の雪だるま大作戦」など、特別感を演出するのが上手いんですね。

数時間から1日で完結できる特別感

また、飲食業以外でも、日常の中の非日常という演出をしているところは強いのではないでしょうか。完全に非現実を求めるのであれば、一週間の海外旅行にでも行きたいところですが、もっと小さいタームでの少し非日常の分野が伸びてくるのではないかと思うのです。

例えば、日帰りスパのツアーや、1日で完結するはとバスツアー、最近流行になっている脱出ゲームも数時間程度の内容です。だんだん1回に消費する時間サイズが小さくなっていっており、数時間や1日で体験できる「ちょっとした特別感」というのがメインになってくるように思います。

背景には、経済成長も見込めず、平均所得がどんどん下がっている中、日々普通に暮らしながら、少しだけ特別だったり贅沢なものを求めるという状況があるのかもしれません。さらには、時間が細分化されていることも挙げられます。スマートフォンの登場により、1つの作業やコンテンツにかけられる時間がかなり少なくなっているのです。すきま時間の集積でツイッターだったりソーシャルゲームだったりを楽しんでいます。いずれにせよ、1つの行動にかける時間が以前より少なくなり、時間がかなり細分化されていっているように思うのです。

コーヒーというやつ

たどころ象徴としてのコーヒー

コーヒーというやつは、まったくすごいやつだと思うのです。
コーヒーは、ただの嗜好品飲料という枠を超えて、あらゆる目的の象徴として機能しています。たとえば休息という目的の象徴です。コーヒーチェーンとして世界的に成功をおさめたスターバックスのコンセプトは、店舗を第3の場所として提供する、つまり家と職場の中間で休息をとる場所を提供しています。ある意味コーヒーが、休息の象徴として存在しているのです。

もはやコーヒーを提供するカフェは、コーヒーを飲むという機能ではなく、

・タバコを吸うための喫煙スペースとして機能したり
・友だちと会話をするための語らいの場として機能したり
・ビジネスの会話をするための打ち合わせスペースとして機能したり
・勉強をするための机として機能したり

あらゆる目的の象徴として機能してるのですよね、コーヒー。

コーヒー戦争

コーヒーというやつのスゴさにいち早く気づいていたマクドナルドは、マックカフェなる構想を打ち出してコーヒーメニューを充実させました。無料券や値引き券を配布して、とにかくコーヒーをフックに来店してもらい高単価のセットメニューを頼んでもらおうという作戦です。
これが功を奏していたのですが、コンビニチェーンも同じように目をつけ、店頭で一杯だてのコーヒーが飲めるマシーンを次々導入、マクドナルドとガチでコーヒー戦争を繰り広げています。(その後、マクドナルドがコーヒーを打ち出さなくなった様子を見ると、コンビニチェーン側に軍配があがっているのでしょうか)

さらに、コーヒーチェーンもドトールやスターバックス等のチェーンが店舗数を確実に増やしています。こちらはタバコ休憩をとりたいサラリーマンと、第3の場所で休息をとりたい人々という形で顧客のニーズがかさならないので、競合にはなっていないような気がします。

このように、どんどん象徴としての存在感を増すコーヒー。
今後のコーヒーをとりまく周辺状況がどうなるのか興味深いですね。

解決力を養うためには

ハムスター

ハムスターの処遇をどうするか

昨日のエントリで、体系的思考が低下している気がしているという話題を出しました。エントリの最後で、例題に使った問題を出してみたのですが、いかがでしたでしょうか?

問題を再掲しておきます。

みつこさんは3年B組の学級委員長です。みつこさんは、3月に行われた学期末の学級会において教室で飼育しているハムスターの係を決めるべきだと議題を出しました。3年B組では、ハムスターの世話を担任のよしこ先生が行っていたのです。クラスメイトののぶおくんは、引き続きよしこ先生が世話をするべきだと言いました。さとこさんは、みつこさんに賛成で係りを決めるべきだと言いました。よしこ先生は自分が引き続き世話をすると言いました。

さて、今のところ「ハムスターの係を決める」派と「先生が世話をする」派の2つで対立しています。このいずれかの意見に賛同するか、第3の意見がある方はなぜその主張になるのか理由を考えてみてください。

・・・・・・。

・・・・・・。

・・・・・・。

正解発表なのですが、いずれの意見にしろこの段階で答えを出してしまう時点で全部間違いです。といういじわる問題なのですが、この問題を考えるあたっては前提となる情報が不足しているのです。よって「解答を出すための前提条件が不足している」という答えが正解なのです。

冒頭に「3月に行われた学期末の学級会において」というくだりがあります。もしも3年B組が中学校か高校であったら卒業してしまいますね。小学生だったにしろ、3月の学期末ですからクラス替えがあるかもしれません。ということで、3年B組が4月以降どういう形態になるかによって、ハムスターの処遇が変わってきます。

欠けている物に気づけるか

前提情報の欠如に気づけなくて、主観で判断して水掛け論になることがよくあります。

「ハムスターの係りを決めた方がいいよ!自主性が大事だ!」
「いや、ハムスターのことを考えたら先生にまかせるべきだよ!」

みたいに。

そして経験上、9割以上の人が前提条件の欠如に気づけないきがします。私たちは、あまりにも与えられたパーツの中で答えを出すことに慣れ過ぎているのです。義務教育を通して、与えられた情報以外の情報を取りに行き、ものごとの解を求めることは一切ありませんでした。

ということで、昨日のエントリに戻りますが、ここでもやはり体系的思考が大事なのです。体系的思考の棚を頭の中に作れば、どの棚が空っぽなのかが分かるのです。

このへんは、小宮 一慶さんの「ビジネスマンのための「解決力」養成講座」が非常に勉強になりますので、ご一読をおすすめします。

体系的思考のテスト~ハムスターをめぐる問題~

ハムスターをめぐる3年B組の問題

体系的思考が低下している気がするのです。唐突に結論から入ったのですが、まずは以下の文章を読んでみてください。

みつこさんは3年B組の学級委員長です。みつこさんは、3月に行われた学期末の学級会において教室で飼育しているハムスターの係を決めるべきだと議題を出しました。3年B組では、ハムスターの世話を担任のよしこ先生が行っていたのです。クラスメイトののぶおくんは、引き続きよしこ先生が世話をするべきだと言いました。さとこさんは、みつこさんに賛成で係りを決めるべきだと言いました。よしこ先生は自分が引き続き世話をすると言いました。

さて、3年B組のハムスターをめぐる状況を整理してみてください。

体系的思考をする人が、どういうルーツをたどって記憶していくかを図解してみます。

【みつこさんは、3月に行われた学期末の学級会において教室で飼育しているハムスターの係を決めるべきだと議題を出しました。】
まず、冒頭においてみつこさんの主張がぽつんと置かれます。

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【3年B組では、ハムスターの世話を担任のよしこ先生が行っていたのです。】
みつこさんの議題に対して、現状がどうなっているかの解説です。事実として脇において置きましょう。
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【クラスメイトののぶおくんは、引き続きよしこ先生が世話をするべきだと言いました。】
よしこ先生が世話すべきという、みつこさんと真逆の主張を持つのぶおくんが現れました。みつこさんと反対のことを言っていますから、対極に置きます。
hamu_03

【さとこさんは、みつこさんに賛成で係りを決めるべきだと言いました。】
みつこさんの意見の支援者が出てきました。みつこさんの近くにおきます。それとともに、現状は「ハムスター係を決める」という主張と「先生がやる」という2つの対立した主張が存在します。ここで、登場した人々の意見をこの二つの主張に分ける大見出しをつけます。
hamu_02

【よしこ先生は自分が引き続き世話をすると言いました。 】
よしこ先生の意見はのぶおくんと同意見です。前のステップでつけた大見出しのうち、「先生がやる」派の意見ですので、そちらのグループに入れます。
hamu_01

ということで、最終的にこういう図が出来上がりました。これが体系的思考が出来る人の情報整理術です。ここに新たに美術の先生がきて「生徒の自主性を重んじて係を作るべきだ」と発言しても、美術の先生を「ハムスター係を決める」派に投入すれば良いのです。最初に状況を整理した図を頭の中に作っておけば、その後の情報量が増えても体系的に処理が出来ます。
また「先生がやる」という意見の人は何人?と聞かれてもすぐに答えられるのです。

体系的思考ができない人

では、体系的に情報を整理できない人はどう考えるでしょうか。これら一つ一つの情報は、思考の棚に入れられないまま、目の前を流れるベルトコンベアのように通過していくのです。ゆえに、登場人物が増えれば増えるだけ混乱していきます。おまけに、意見の違いと利害関係の構図が理解できないので、ここから状況を整理することが出来ません。

体系的思考をするためのポイントは二つです。まず一つ目は、真っ白な頭の画用紙に情報をひとつ置くことから始めることです。この例でいえば、【みつこさんは、3月に行われた学期末の学級会において教室で飼育しているハムスターの係を決めるべきだと議題を出しました。】という情報がはじめに置かれます。
その事実から出発して、関連した情報をどんどん紐づけていくのです。

そして、二つめのポイントは、ある程度情報量がたまったら情報を抽象化して再構成すること。【さとこさんは、みつこさんに賛成で係りを決めるべきだと言いました。】のくだりです。このくだりで、異なる2つの主張がぶつかっていることが分かります。ここで両者の意見の見出しをつけることにより、その後の情報がさらに分類しやすくなり、大局観が分かりやすくなるのです。

なぜ体系的思考ができなくなったのか

なぜこんなことを思ったかというと、ちょっと前に行った実験が原因です。少し前に「解るニュース」というコンテンツを考えました。ニュースを図解にして、テキストを恋愛ゲームのインターフェースでポチポチ小出しにしていき、画像部分に対応した図解が表示されるというものです。

ここで数十人に見てもらって気づいたのが、一番目に見た情報を記憶として蓄積できず、2番目、3番目以降の情報もどんどんダダモレてしまう人がけっこういたのです。

ここでは、ハムスター係を例に出しましたが、国際情勢などはこの図が更に複雑になったようなものです。

シリアのアサド大統領がいました。
アサド大統領は国民を弾圧しているので、デモが発生しました。
一部の過激派とアサド大統領側の軍隊がぶつかり、国際問題となっていきます。
欧米諸国は民主化を目指すために国民の味方ですが、中国やロシアなどはアサド大統領を支援しています。
シリア

このように、シリアのアサド大統領を起点に頭の中の情報を更新していくのですが、思考の棚が築けずに「アサドって誰だっけ?」と、相関関係が分からなくなってしまうのです。

しかも、思考の棚が築けないのは20代前半の若年層(結構良い大学を出ている)に多いようでした。私見ですが、この現象にはツイッターが一役買っているような気がします。ツイッターは体系的思考がなくても単体で刺激的なコンテンツが目の前をベルトコンベアのようにどんどん流れていきますから。
ツイッターに限らず、スマートフォンの作りは体系的思考を求めないベルトコンベア型(フロー型)がほとんどなのです。

ということで、一番の訓練はとにかく本を読むです。特に物語は、登場人物とそれぞれの利害関係を把握するには、最も役にたつツールなのです。

■最後に
そして、皆さんはハムスターをどうするのが最適化だと思いますか?生き物係を作りますか?それとも先生が引き続き世話をしますか?
正解は、次回のブログで・・・。

※関連エントリ
体系的思考は、これからの時代には必須だと思う
体系的思考の養い方

Facebookでセルフブランディングしている人に限ってヤバい

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冒頭から言い訳なのですが、このトリブログ、私の思ったことや所感などをつらつらと書いてきたのですが、1つだけ編集ポリシーがあったのです。

極力ネガティブなことと、人を中傷しないという・・・。

ブログのタイトルを書き出した時に、「Facebookでセルフブランディングしている人に限ってヤバい」ではなくて「パーソナルブランディングはどこへ向かうのか」というタイトルにしようと思ったのですが、いや、私が思うところはそうじゃないだろうと、単刀直入に簡潔なタイトルをタイピングし直しました。


Facebookで

セルフブランディングしている人に限って

ヤバい

です。

これはセルフブランディングしている人をディスろうとか、陥れようとか、そういうわけではなく、Facebookのセルフブランディングと、それを行う人の間にかいま見える相関関係を感じ取った故です。(因果関係ではなくて、あくまでも相関関係なのです。)

私の目の前に現れるセルフブランダーやセルフブランディストの方々が、お仕事などでお取引するとたいていヤバいのです。これが今のところ100発100中すぎて、逆に知的興味が湧いて同じことを思っている人はいないのかとググってみたのですが、全然見受けられないためにブログの筆を取ることになったのです。(実際はキーボードを叩いているのです。)

何個か例を挙げると、ものすごくソーシャル上でコメントを発信して各種イベントに登壇しちゃうような人が、いざ一緒に何かやってみると、あまりにもずさん過ぎてあっけに取られるとか(しかも、それは意図的としか思えないずさんさだったりとか)、、

「一つ一つ着実に積み上げて実現していこう」というような書込みをしているのに、実際にプロダクトを作ろうとすると、かなりいい加減だったりとか、、

毎日ツイッターで情報を発信し続けて、それなりの有名人になっている風の方と共同作業しても、全く対応してくれないとか、、、

と、これくらいで例を挙げるのを止めるのですが、ポカーンとなっちゃうことが多くて、この相関関係はなんだろうな。ふうむ。と思ってしまったわけです。

逆に、一緒にお仕事したり作業させてもらったりして、また一緒に何かやらせて頂きたいなと思える方ももちろんいます。
そういう人にかぎって、ほぼFacebook非アクティブユーザーで友達数も少なかったりするんです。

これってもしかしたら、「灯台もと暗し」なのかもしれません。一緒に作業やらお仕事させてもらうということは、その人(灯台)のふもとにいるわけです。しかしその灯台は、自分の足元ではなくて遠くの海原にいる数千人、数万人の人々に光を照らしてブランディングをしている。目の前の会議で、目の前の人の声に耳を傾けるよりは、手元のツイッターで数千人につぶやきを発信することの方が重要なのです。

しかし思うのですが、ブランディングは所詮ブランディングで、いくらブランドという名の皮を身にまとっても、皮が剥げてしまえば実態は露見するわけで「なにこの人。」って思ったら人は去っていくと思うんですよね。

むしろ、皮をむいてもむいても、中身が一向に現れない玉ネギだったりして・・・。ということで、今後もし同様の場面に遭遇したら、心の中で「この玉ねぎめ・・・」と呟いて溜飲を下げることにします。

※今ググったところ、灯台もと暗しの灯台は、海を照らす方ではなくて部屋の中にある行燈みたいなものを指すようです。でも、海の灯台の方がイメージつきやすいですねぇ。

均質化する世界、陰影はどこへ行ってしまったのか?

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谷崎潤一郎は、日本文化は陰影から生まれたと言ふ

そのむかし、国語の教科書に谷崎潤一郎の「陰影礼賛」(いんえいらいさん)というエッセイが載っていました。

かなりうろ覚えですが、電灯がなかった時代、ローソクの火で照らされる漆塗りの漆器が美しかったこと等を例にあげて、「暗さ」によってもたらされる日本の文化や美について書かれていました。ウィキペディアで検索したところ、こんな風に解説されていました。

まだ電灯がなかった時代の今日と違った美の感覚を論じたもの。こうした時代、西洋では可能な限り部屋を明るくし、陰翳を消す事に執着したが、日本ではむしろ陰翳を認め、それを利用する事で陰翳の中でこそ生える芸術を作り上げたのであり、それこそが日本古来の芸術の特徴だと主張する。

そう言われてみると、リアリティを追及するNHKの大河ドラマは、全体的に夜のシーンは真っ暗だったりしていて、昔はこんなだったのかと思うことがあります。そういえば、闇鍋なんていうものもありました。

翻って考えると、今は天井に漏れなく設置されたシーリングライトが、パーっと全体を照らしているかのようです。

昔の深夜テレビってもっとシュールだったりエッチだったり、子供は見てはいけないコンテンツがたくさんありました。夜中の12時代に放映されている番組は、かなりディープなものばかりでした。現在では夜中の12時にテレビのスイッチを付けても、万人受けするバラエティや情報番組が流れています。

ゴールデンタイムのテレビについても、昔は「宇宙人はいた!」とか「徳川埋蔵金」とかうさんくさいものを平気で放映していましたが、だんだんクイズ番組やら世界の秘境になって誰でも安心して見られる番組ばかりになりました。

昔のテレビ番組は、踏み入れることを躊躇するような闇の部分がけっこうあったのですが、いつの間にかライトでくまなく照らされて、そういうコンテンツがなくなっていったように思います。
その結果、全てが平均的な明るさになり、平均的で健全な面白さを提供してくれるようになり、そして平均的につまらなくなっていきました。

どれもこれも平均的なので、何かと差別化するポイントもありません。差別化するポイントがないということは、あえて「それ」を選ぶ理由もないということです。

リアル世界でもなくなっていく陰影

うさんくさい番組がなくなった原因のひとつは、インターネットの発達もあるかもしれません。インターネットが発達したおかげで、「宇宙人はいた!」とかをやったとしても、誰かが既にネット上で検証しているかもしれないし、誰でもNASAの公式見解を見たり、ウィキペディアで歴史を紐解くことが出来るため、すぐに嘘がバレてしまうからです。

そして、インターネットというシーリングライトは、現実の世界をもくまなく照らします。ツイッターがバカ発見機と言われ、軽犯罪に触れる行為をした人たちは、ネット上に残したわずかな情報から、氏名、住所、学校や勤務先を特定してネット上でさらされてしまいました。

Facebookやツイッターをやっている人は、漏れなく自分が壊滅的なダメージを受けるほどの個人情報が流出する危険性を常にはらんでいるのです。
まるで、隠れるための影がなくなって、ライトで照らされた部屋の中をウロウロしているようです。しかし、多くの人たちは、そこに隠れるための影がなくなっていることにすら、気づいていません。

それってとても窮屈なことじゃないでしょうか。コンテンツでもインターネットの中でも、世の中でも、少しくらい隠れて休める場所や、影のある部分があったほうが、余白があってやりやすいのではないかと思います。いろんなことがどんどん精鋭化して、均質化した先に来る未来って、けっこう暗いと思うのです。