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「Amazon Dash Button」によって、ヤマト運輸の方々が更に大変になるかも

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今の所、1回の注文における商品の数量を増やせない「Amazon Dash Button」

「Amazon Dash Button」は数量を増やして注文が出来ない

家では南アルプスの天然水を飲んでいるのですが、つい注文を忘れてしまいがちです。ですので「Amazon Dash Button」が発表されるとともに、すぐさま南アルプスの天然水のDash Buttonを注文して、早速取り付けてみました。(セットアップの過程で、ボタンを押してみようって出たので、チュートリアルの一環かと思ってポチったら実際に注文されてしまいました。)

しかし、セットアップして気付いたのですが「Amazon Dash Button」って商品の数量が増やせないのです。いつも私は水を5ケースくらいまとめて頼んでしまうのですが、ラインナップを見ても2ケースが1個の商品になっているものしかないし、1回の注文につき数量を増やせる設定がないんですね。(Amazon Dash Buttonは誤発注防止のために、一度ボタンを押したら、商品が届くまでボタンを押しても無効になります。)

これは、困ったなーと思ってアマゾンに問い合わせてみたところ・・・
  • 今の所、1回の注文における商品の数量を増やすことは出来ない
  • 一度ボタンを押したら、商品が届くまでボタン押下が無効になる機能は解除できるので、どうしても数量を増やしたかったら、その機能を解除した上で、ボタンを複数回押せば数量は増える
ということでした。しかし、誤発注防止のためのボタン押下が無効になる機能を解除するのは、心理的にどうしても怖いわけです。(小さなお子さんがいる家庭は特にそうでしょう)

しかし、結構な家庭で洗剤とかコーヒーとかをまとめ買いする需要っていうのはあると思うんですね。そう考えると、どうなるかというと…

「送料無料だし、翌日届くから、小刻みにボタン押して頼むか」になる

そもそも「Amazon Dash Button」はプライム会員限定サービスなので、だいたい翌日届くことは確実なわけです。ということは、今まで複数個まとめ買いしてストックしておく派だった人でも、とりあえずボタン押すだけだし、なくなったら注文するか。というインセンティブが働きがちな気がします。
このサービスの利用者が増えて、みんながみんな消費財を小刻みに注文しだすと、今まで以上に配達をしているヤマト運輸の配達員の人々が大変になるかもしれないな…と思いました。(元々は、佐川急便が配達を担当していましたが、2013年に取引を打ち切っています。)

しかも、アマゾンって自社のサービスの改変に伴うステークホルダヘの影響を、絶対に事前に告知しないと思うんですよね(電子書籍サービスの件しかり)。

アマゾンの配送を引き受け「正直しんどい」 過酷すぎるヤマト運輸の実態
http://news.livedoor.com/article/detail/11430306/

アマゾン読み放題、勝手に「20社削除」の衝撃
http://toyokeizai.net/articles/-/139256

シン・ゴジラに見る「そういうことになっている」

バレンタインデーには、チョコレートをあげることになっていて、節分には恵方巻きを食べることになっていて、クリスマスにはクリスマスケーキを食べることになっていて、というのがたくさんあります。慣習的に「そういうことになっている」というのはとても強いです。
バレンタインデーにチョコレートをあげることになっているから、みんな当たり前のようにチョコレートを買いに走った結果、チョコレートの売上が上がりますし、恵方巻きやクリスマスケーキもそうです。
みんな「そもそも、何でバレンタインデーにチョコレートをあげないといけないんだっけ?』とか「何で節分に恵方巻きを食べるんだっけ」とか、なぜやるかを改めて考えたりはしません。いちいち考えていたら、大変だからです。

だから、「そういうことになっている」状況というのは無双なので、企業は頑張って「そういうことになっている」状態を作り出そうとします。これが戦略PRというやつだと思います。バレンタインデーやクリスマスのような行事も、さかのぼると企業のキャンペーンから始まっている場合もあるようです。

最強の「そういうことになっている」のは法律です。むしろ「そうしないといけない」という表現が近いのですが。守らなければ罰せられるので最も強いルールです。法律が改正される時は、関連する業界は儲かる会社が出てくるといいます。

時間が経てば経つほど「そういうことになっている」というのは強固になっていきます。だから、作られてから歴史が長い政府官僚の組織や、大きな会社などは「そういうことになっている」のがんじがらめになります。
映画「シンゴジラ」で緊急事態なのにも関わらず伝言ゲーム状態になるのは、連絡の伝達方法が「そういうことになっている」からです。バレンタインデーやクリスマスと同じく、いちいち「そういうことになっている」ことを疑ってかかっていたらキリがないのです。

先日、近所の小学校で運動会の練習をしている声が聞こえてきました。運動会で隊列を組んで、素早く移動する練習をしていましたが、そういえば小学校の頃から「そういうことになっている」を刷り込まれるのだなあと思いました。
「何で、そもそも隊列なんて組まないといけないんだっけ」と思っている子がもしそこにいたら、生きづらいだろうなあと思います。

しかし、時たま「そもそも、何でそんなことになっているんだっけ」と疑問を持って、そこを破壊しようとするイノベーターが現れます。スティーブ・ジョブズの「Think simple」を読むと、ジョブズはつくづく「そういうことになっている」ことを許さない人物なのだと思います。会議にもし不要な人間が出席していたら、それを許さずに退席を求めます。組織の中に慣例が積み重なり、組織が複雑になっていくことを非常に嫌うのです。

そしてソフトバンクの孫さんも、NTTが提供するインターネット回線の料金が高いと感じ「そういうことになっていた」インターネット回線の価格破壊する「Yahoo!BB」を立ち上げます。

イノベーターは、周囲の人たちは違和感を感じない「そういうことになっている」状況に違和感を感じ、それを破壊しようとするのです。そして私たちは、イノベーターたちの破壊によって、新しい価値を手にしたり、テクノロジーの普及という恩恵を受けることが出来るのです。

iPhoneのアイコンが角丸である理由は、初代マッキントッシュ開発時にさかのぼる

iPhoneのアイコンが角丸で、Appleのイヤホンが真っ白な理由

スティーブ・ジョブズが亡くなったのは、iPhone4Sが発表された翌日の2011年10月5日でした。ジョブズが亡くなってから早5年が経とうとしていますが、今もまだアップル製品を手に取れば、ジョブズがデザインにかけた哲学がかいま見られます。
例えば手元のiPhoneを手にとってみてください。角丸のアイコンが整然と並んでいます。もし目の前にMacがあれば、何か適当にスクリーンを開いてみてください。スクリーンの四隅も角丸で構成されているはずです。iPhoneのアイコンが角丸である理由は、初代マッキントッシュの開発時に遡ります。

初代マッキントッシュは、真っ黒な画面にコードを直接打ち込んでいたそれまでのパソコンを一新し、GUI(グラフィカルユーザーインターフェース)を実現しました。開発に参加していたエンジニアのビル・アトキンソンは、ある日スクリーンに円や楕円を素早く描けるアルゴリズムを思いつきます。アトキンソンのデモを見た開発メンバーは感嘆したと言いますが、ジョブズだけは例外でこんな一言を言い放ったそうです。

「円や楕円はいいけど、角を丸めた長方形は描けるのかい?」

アトキンソンは、そこまでやる必要はないし、やろうとしてもほぼ無理であることを説明したそうですが、ジョブズはどうしても長方形の角丸にこだわったそうです。

「角を丸めた長方形はそこいらじゅうにあるんだぞ!」
ジョブズはさっと立って声を荒げる。
「この部屋を見てみろ!」
ジョブズは、ホワイトボードにテーブルトップなど、角を丸めた長方形のものを次々とゆびさす。
「外に出ればもっとたくさんある。どこを見てもあるくらいだ!」
こういうとアトキンソンを連れ出し、車の窓にビルボードの広告、道路標識などをゆびさしていく。ジョブズによると3ブロックほど歩く間に17個の実例を見つけたという。アトキンソンが納得するまで、それを次々と指摘したのだ。
「駐車禁止の標識を示されたところで言いましたよ。『わかりました。降参します。角を丸めた長方形を基本命令の形として用意します』と」

この出来事をきっかけに、MacやiPhoneなどApple製品におけるスクリーンの形は、すぺて角丸の長方形となったのです。さらにiPhoneやiPodを持っている人は、イヤホンを見てみてください。Apple製品のイヤホンは真っ白です。これはiPod開発当時にデザイナーのジョナサン・アイブがこのカラー=ピュアホワイトにこだわり、ジョブズがそれを支持したからだと言います。

このデザインについてアイブはこう語っている。
「小さな消費製品というのは、たいていは、ポイッと捨てられても問題ないような雰囲気があります。文化的な重みがないのです。iPodについて私が一番誇らしいと思う点は、重要性が感じられ、ポイ捨てできる雰囲気ではないところです」
単なる白ではダメ。”ピュア”ホワイトでなければならない。
「機器だけではなく、イヤホーンやそのワイヤ、電源も”ピュア”ホワイトでなければならないと思いました」
当然ながら、イヤホーンは一般的な黒にすべきだとの意見が多かった。
「でもスティーブはその意味をすぐに理解し、ホワイトを支持してくれました。白には純粋さがあるのです」

ジョナサン・アイブの意見をジョブズが支持したからこそ、今に至るまでApple製品のイヤホンは真っ白なのです。iPod発売時の広告は、黒い人物のシルエットにiPodと真っ白にうねるイヤホンが偶像的に配置された印象的なビジュアルでした。

ジョブズは、デザインを身体性に裏打ちされた感覚で判断していた

ジョブズはデザインについて強いこだわりを持っていたことで知られていますが、ジョブズ自身がデザインのアイデアを出すというよりは、他者が出したアイデアについての取捨選択が上手かったのだと思われます。そして、その判断はジョブズが「リベラルアーツとテクノロジーの交差点」というスローガンを掲げたように、ロジックというよりは身体的に判断されることが多かったようです。Appleのデザイナーであるジョナサン・アイブはこのように話しています。

デザインの大半は会話形式で進めます。テーブルのまわりを歩き、さまざまなモデルに触れてみながらやり取りをするのです。スティーブはごちゃごちゃした図面を読むのが嫌いで、モデルを目で確認し、身体で感じる方を好みます。

ジョナサン・アイブ

ジョブズが製品デザインについて、10年も20年も前に決断したことが、今のApple製品にも未だに息づいています。Appleのシンプルなデザインを実現するためには、良いデザインを採用するよりは、むしろ悪いデザインにNOということのほうが100倍は多かったでしょう。現在のApple製品のデザインは、ジョブズの残酷までの率直さに支えられているとも言えます。

僕は自分を暴虐だとは思わない。お粗末なものはお粗末だと面と向かって言うだけだ。本当のことを包みかくさないのが僕の仕事だからね。自分がなにを言っているのかいつもわかっているし、結局、僕の言い分が正しかったってなることが多い。そういう文化を創りたいと思ったんだ。僕らはお互い、残酷なほど正直で、お前は頭のてっぺんから足のつま先までくそったれだと誰でも僕に言えるし、僕も同じことを相手に言える。ギンギンの議論もしたよ。怒鳴りあったね。あんないい瞬間は僕の人生にもそうそうないほどだ。僕は、「ロン、この店はまるでクソだったね」ってみんなの前で言える。全然平気なんだ。「こいつのエンジニアリングは大失敗だったな」って、責任者を前にして言うこともできる。超正直になれるーこれが僕らの部屋に入る入場料なのさ。

一見非合理なデザインは、AppleをAppleたらしめるアイデンティティとなる

ジョブズは自分が最高だと思える以外の物を否定し続けることで、デザインの調和をシンプルに保ってました。しかし、死後5年が経ち、もし彼がいれば否定していたであろうプロダクトが、アップル製品に見られるようになります。
例えば、ジョブズが最後に関わったiPhoneは4Sが最後ですが、その後のiPhone6や6Plusは画面サイズが拡張されます。ジョブズは、他社から7インチのタブレット端末が発売された際「発売された時点で死んでいる (DOA)」と発言しました。しかし、その後Appleはほぼ同じようなサイズのiPhone6Plusを発売します。確かに画面が大きいため動画の視聴に向いており、実際にiPhone6及び6Plusの販売数もiPhone史上最高を記録したようですが、もしもジョブズがいたら「手に馴染まない」という理由で却下していたような気もします。デザインを合理的なロジックではなく、身体性から感じる直感で判断していたからです。

ジョブズがデザインを身体性で判断していたことがうかがい知れるエピソードとして、Appleに復帰した後にAppleで開発されていた携帯情報端末「ニュートン」の開発を止めさせたことにも現れています。ニュートンには、端末専用のスタイラスペンが採用されており、このペンが大嫌いだったジョブズは「神は我々に10本のスタイラスペンを与えたもうた」と言って、ニュートンの開発を止めます。
その後、神が与えたスタイラスペンを活用できる端末ーiPhoneを開発するのです。しかし、Appleはジョブズの死後にApple Pencilというスタイラスペンを発売します。今はプロユースで使われているようですが、スタイラスペンに対する特許を申請したという情報もあり、今後裾野を広げて販売される可能性もあります。

iPhoneやMacのスクリーンが角丸なのも、イヤホンが真っ白なことにも合理的な理由はありません。ジョブズが身体的な感覚で判断して採用したデザインです。しかし、時を経るとともにスクリーンの角丸や、真っ白なイヤホンはAppleをAppleたらしめるアイデンティティとなるのです。

しかし、iPhoneの画面サイズの拡張やスタイラスペンの発表など、ジョブズなき後のAppleはプロダクトついての決断をを合理的に判断しているように思えます。スマートフォンの通信速度が上がり、動画視聴が増えたため画面サイズが大きいiPhone6や6Plusにはニーズがあります。しかしそれは「動画視聴をするための画面サイズの大きなiPhoneが欲しい」という消費者の合理的な理由によるものです。旧来のアップル製品への「何かよくわからないけど、Apple製品がカッコいい」という購入モチベーションは、スクリーンの角丸や白いイヤホンなど、合理的な理由ではないデザインに裏打ちされていたものです。
これからAppleは合理的な判断をし続け、だんだんと人々はApple製品に不思議な神通力を感じることは少なくなるように思います。

ちなみに、このブログを書こうと思ったきっかけは、マジックマウスが壊れたためマジックマウス2を購入したところ、充電方法がまるでひっくり返ったゴキブリのように見えたためです。これにNOを言える人がいなくなったのかなと。

引用は全て「スティーブ・ジョブズ」講談社刊より



 

スティーブ・ジョブズは、なぜ子供たちにiPhoneを持たせなかったか

スティーブ・ジョブズが子供達にiPhoneを触らせないと言ったのは有名な話ですが、ドワンゴの会長の川上さんもインタビューにて子供にはスマートフォンを触らせないと言っていました。イノベーターの人たちが、こぞって自分の子供たちにはスマートフォンを触らせないというのは象徴的な気がします。

スマホやタブレットに慣れると、本を読むことがきつくなる!?


数年前、当時大学生だった男の子と話をする機会がありました。彼は、大学の授業にはタブレットを持ち込んで授業のメモを取っていて、ペーパーレスな生活を送っていたそうです。しかし、ある時気付いたら、前はよく読んでいた本を読むことが苦痛になり、授業の内容も頭に入ってこなくなったそうです。それ以降、タブレットを持ち歩くのをやめ、代わりにカバンに文庫本を数冊入れて持ち歩くようにしたのだとか。

先日もIT業界の人と話していて「静止しているテキストを読むことが辛くなった」という話題になりました。フェイスブックやツイッターは見るたびに情報が更新されていく動的な情報群です。目の前を流れていくフローの情報を延々眺めていることに慣れると、本のようにそこに変わらぬ情報が静的に存在する文章を読み込むことが辛くなるのです。

体系的な知識を身につけるためには、ストックの知識が必要


どんな学びもそうですが、何かを真剣に学ぶためにはストックの知識を貯めることが必要です。英語を学ぶためには、文法や単語をひたすら暗記するというストックの知識を地道に積み重ねなければなりません。ストックの知識が積み重なって知識の土台ができると、学問についての体系的な知恵が身につくため、フローの知識を入手した際に、その体系的な箱のどこかに情報を組み込んで活用することができます。
逆に言うと、ストックの知識という土台による体系的な知識の枠組みがなければ、目の前を流れるフローの情報は、そのまま頭の中を素通りして通り過ぎていきます。
例えば何処かの会社の株価が急騰した。というニュースを見たとしても、その株価の急騰が何を意味するのかを判断するには、株価に対する基本的な知識やその会社の過去の株価の経緯、競合他社の動きなどの構造的な知識がなければ、その情報の価値が判断できません。

このようにストックの知識を身につけることは、フローの情報の価値を判断する上でも大切なことです。ニュースキュレーションアプリのNewsPicksでも、プロピッカーと呼ばれる専門家の方々によるニュースの解説が面白いのは、バックグランドにある膨大なストックの知識に裏打ちされたコメントだからです。

しかし、冒頭のように恒常的にインターネットに接していると、ストックの知識を身につけることが苦痛に思えるようになり、ひたすらフローの情報を追うようになります。しかし、体系的な知識の枠組みがなければフローの情報を活用することが出来ないため、ひたすらその情報単体でインパクトのある情報を追い求めるのです。

よくその人の賢さは質問力に出るといいますが、これはコメント力にも当てはまることです。何かの情報に対してコメントするということは、その情報に対しての体系的な知識を持っているかが試されるからです。
この体系的な知識を持っているかどうかを、うやむやにするコメントが「後で読む」「良記事」などの語句になります。(そして、しばしばインターネット漫画などでそれらのコメントが揶揄されます。)

ということで、インターネットは基本的にフローの情報の洪水社会です。この洪水から、価値のある情報を見極める目を養う上でも、ストックの情報をみにつけて体系的思考を身につけることは重要だと思います。

仕事が出来る人と出来ない人の違いは、想像力にあった

「体系的思考」のファーストステップは想像力の有無

仕事が出来る人と出来ない人の違いは「体系的思考」の有無にあるというブログを書いたのですが、体系的思考のファーストステップは「想像力があるかどうか」です。

体系的思考とは、下記のように自分で思考の枠組みを作って、要素を当てはめて行くという思考ですが、要素をどのように構成し、枠組みに当てはめるかを決めるキーとなるのは「顧客に対する想像力」だからです。

 
体系思考とは、全体像を把握した上で各要素を分類すること。そして、分類した要素を抽象化して、別の要素と繋ぎ合わせて考えること。
 

この能力がずば抜けて高い人と仕事をすると、非常にプロジェクト進行がスムーズになります。以前一緒にお仕事をさせて頂いたYさんという人がいるのですが、この方はコンサル出身の技術畑の方で顧客に対する想像力が突出している方です。

私はよくテストプロダクトを作って知り合いにURLを送って使ってもらい、感想を聞くということをしていました。たいていの人はこういう返答になります。

相手「けっこう使いやすかったと思うよ」
わたし「どういったところが?」
相手「なんか、ボタンも大きかったし、見やすかったかも」
わたし「逆に使いにくいところは?」
相手「最初のところがちょっと文字小さいよね」

しかし、Yさんにも同じ様に「これテストプロダクトのURLなので、良かったら使ってみて感想をください」と送ったところ、以下のような返信が返ってきたのです。

Yさん「状況から察するに、このプロダクトを使ってどこで詰まったかという情報が欲しいかと推察しましたので、使った経緯とその時の心理をメモしておきました。使ってみた心理導線も含めてレポートします。」

そして、実際に自分がどのようにページを遷移して、その時何を思ったかというレポートをくれたのです。
私は「テストプロダクトを使ってみてください」というぼんやりとしたオーダーをしたのにも関わらず「何を欲しているか」を見抜いて私の需要にマッチしたレポートを送ってくれたのですね。

仕事が出来る人は常に「想像力」で先回りをしている

このように顧客に対する想像力が働く人は、常に相手の需要を読み取って先回りをしています。例えばあなたが広告代理店の営業だったとして、クライアントから「ディスプレイ広告」を配信したいと相談されたとします。ここで想像力が働く営業の場合は、ディスプレイ広告を打ちたいということは「認知を広げたい」のではないかと察することが出来ます。そこで
「もしかして、認知を広げるための広告キャンペーンを実施されたいのではないですか?それでしたらディスプレイ広告と合わせてこういった広告も組み合せると効果が高いですよ」などとアドオンで提案が出来るようになるのです。

ちなみにこの「想像力」が卓越しているメンバーがバックオフィスにいると、とても仕事がスムーズになります。例えばあなたの会社の総務の人が、コピー機から離れたところに積んであったコピー用紙のストック場所を、コピー機の近くに移したりしてくれたことはありませんか?これもコピー機の使用シチュエーションに想像力を働かせた結果ですよね。

さらに契約書や利用規約などを巡って、事業部はよく法務部とぶつかることが多いと思うのですが、もし法務部の人が想像力がある人材の場合は「現状で言うとこの利用規約はNGだけど、このようにやり方を変えて規約を書き直せばOKだと思う」という第3の提案をしてくれるようになるかもしれません。

ポイントは、冒頭のY氏のように顧客の本当の需要を見抜ける「想像力」があるかどうかです。顧客は「ディスプレイ広告を配信」したいのではなく「認知を広げたい」のだということが分かれば、本当の需要を満たすための様々な提案が出来るようになります。

ということで、仕事ができる人は常に「想像力」で先回りしているなというお話でした。

恋愛ゲームに見る、最強モテ術「向井理」理論

以前、恋愛ゲームを作ろうとしていたんですね(完成はせず)。恋愛ゲームのキモは、女子にウケるキャラを作れるかどうかなので、サンプルキャラクターを作って20人以上の女子たちに好みのキャラクターを選んでもらう調査をしていました。その調査を通して、男性がモテるようになる「向井理」理論を発見したのです。
(「スパルタ婚活塾」や「LOVE理論」などで有名な水野愛也先生こと水野敬也先生へのオマージュとして「向井理」理論としてみました。)

「向井理」理論の対局にある理論は「木村拓哉」理論

「向井理」理論とは「とにかく引き算を重ねて、今の自分から色々なものを引く」ということです。味を足していく足し算の豚骨ラーメンに比べて、澄んだダシのみを活かす引き算の和食です。
具体的には、今の自分を見て「足し算」だと思うところがあれば全て引いていき「中立」に戻してみてください。例えば、今ブレスレットをつけてる人は外してください。指輪も外してください。眉毛が細すぎる人は伸ばしてください。とんがったブランドの革ジャンとかを来ている人はユニクロか無印表品のポロシャツを身につけます。髪の毛の襟足を伸ばしていたら、ただちに切り落として黒髪短髪にしてください。

このように無味乾燥に没個性してニュートラルな状態にしていくのが通称「向井理」理論です。しかし、たいてい男性は「モテ」というものに逆の思想を持っています。自分にプラスしていき、かっこいい要素を作ろうとするのです。これを「木村拓哉」理論と呼びます。しかし、女子たちはおしなべて「向井理」を受け入れますが、「木村拓哉」だと好き嫌いがはっきり分かれるのです。

女子は「消去法」で好みの男性を選ぶ

イケメンのイラストを5、6枚並べて20名以上の女子に選んでもらったところ、女子は全員、男性を消去法で選んでいきました。自分にとっての「見た目のネガティブ要因」を持った男性を消去していくのです。髪をカラーリングしているのは嫌だ、タバコを吸うかどうか(キャラクター設定にないことでも口頭でタバコを吸うか確認されます)など、ネガティブ要因に触れたキャラクターを外していきます。けっこう多いのが、男性が腕輪や指輪をしているのが嫌だという意見で、これは男性側からするとファッションの一部という足し算のアクセサリーなのですが、女子にとってはネガティブ要因になってしまうようです。
こうして条件によって消去していき、最後に残った一人を「好みのタイプ」として残していました。男性は消去法ではなく一撃必殺で「この子可愛い!」が発動するため、女子のこの感覚が分かり辛いのかもしれません。

「消去法」で選ぶということは、中立的な人が残りやすい

つまり、消去法で選ぶということは、とんがったところを持っていない「中立的」な人が残りやすいということです。黒髪、短髪、目が大きすぎたり小さすぎたりしない、ファッションも普通という人が最大公約数を取りやすくなります。これが、世の中の多くの女子が向井理を受け入れている理由な気がします。逆に何か尖ったところがある人は、そこが誰かのネガティブ要因に転化する可能性があるのです。

意中の相手がいる場合は、リサーチを

「向井理」理論は、モテの最大公約数をいかに取るかという目的のもと、中立的になると多くの人に好意を抱かれやすいという理論です。逆に、意中の相手がいるのであれば、その人の趣向が木村拓哉好きであれば、革ジャンとか着てしまった方が良いでしょう。
ちなみに恋愛ゲームといえども、女子たちは現実と同じようにかなり真剣に相手を吟味するため、現実の趣向が反映されていると見て良さそうです。例えば年下好きを公言していた人は、キャラクターを選ぶ際も真っ先に年齢設定を確認していました。ということで、気になる女性がいたら、一回恋愛ゲームをプレイしてもらうと好みのタイプを知るきっかけになるかもしれません。

宮崎駿や村上春樹に見る、コンテンツの普遍性と「物語」の役割

コンテンツやアートの本質は普遍性にある?

コンテンツやアートの本質とは、見てる人たちに「普遍性」を持たせられるかということだと思うんですね。

一番最初のレベルが、既に共通の知識がある題材を取り扱うことでコンテンツ自身に「普遍性」が備わってる場合。

たとえばお笑いの漫談などで時事ネタを扱うものがあります。政治家の失言や、芸能人のゴシップなど、皆がすでにニュースなどで得ている共通の知識を下地にしているので「普遍性」を持たせやすいのです。
バズメディアでやたら「猫」の写真がシェアされるのも「猫は可愛い」という一種の普遍性であり、題材に手を加える必要がありません。ネットではこのお手軽な「普遍性」を持ったコンテンツが多いように思います。ゴシップもそうですし、ソーシャルゲームも人間に備わった射幸性を刺激するという意味ではプリミティブな普遍性なのかもしれません。

次のレベルは、観る人たちに一定の知識を求めるコンテンツやアートです。観る側が共通知を持っていることによって、コンテンツに自身で普遍性を添えていきます。例えば古典アートがそうですね。印象派とか、キュビズムがどうとか、バックグラウンドの知識を備えておかなければアートを咀嚼出来ません。こういったコンテンツやアートを味わうには体系的な知識が必要なのです。古典アートの他にも、ファッションというコンテンツを咀嚼するにも、体系的な知識を得ていた方が普遍性を持ちやすくなります。スポーツを観戦するときもルールが分かっていた方がより分かりやすいですし、そのチームやプレイヤーの歴史についての知識があったほうがより普遍性を持ったコンテンツになります。阪神タイガースなんかその最たるものですよね。

そして次のレベルは「なんだかよく分からないけど、普遍性を持つ」というものです。冒頭でお笑いの漫談を例に出しましたが、シュールと言われる種類のお笑いがあります。初期のよゐこは、シュールなコントをする芸人でした。美容院のコントでヘアスタイルを「たくあんにして」と客に言われて頭にたくあんを乗せるコントがあります。頭にたくあんを乗せることが面白いという普遍性はないですが、笑ってしまう。これは人間の無意識のところに働きかけて普遍性を持たせていると言えます。
ラーメンズという美大出身のお笑い芸人(と呼んでいいのか)のコントを、故立川談志さんは「誰もが知っている常識を共感の道具として持ってくることは簡単なのだけど、ラーメンズは人間の無意識化のところで共感を作りだしている」と評していました。

普遍性を持たせるのは「物語」という箱

そして、この「なんだかよく分からないけど、普遍性を持つ」ということに有効なのは「物語」の存在です。主人公とともに、「物語」に没入することで、私たちはある種のフィルターを手にすることが出来、その「物語」は普遍性を持ちます。宮崎駿さんの作品は、公開されるたびに興行収入が200億前後を越えていますが、2000年代半ば以降の作品は解釈が難しい作品もあります。「ハウルの動く城」なんかは解釈の仕様がいくらでもありますし、難解な箇所もあるのに500万人も動員しています。観客側に共通知がなにのに普遍性を持たせることが出来る。これが「物語」という箱のなせる技でしょう。

同様に作家の村上春樹さんも「物語」の重要性について、過去にエッセイなどで何度か触れています。村上さんの作品も世界中で翻訳されて多くの読者を獲得していますが、彼の初期の作品は東京を舞台にした男性のごく個人的な視点で描かれる小説です。この作品が世界じゅうで受け入れられるのも、物語としての普遍性を獲得しているが故だと言えます。

また、優れた「物語」は、多重構造になっています。例えば先ほどの宮崎駿監督の最後の長編作となった「風立ちぬ」ですが、これを一番分かりやすい解釈で観ると「戦争を背景にした悲恋物語」ですが、岡田斗司夫さんの解釈ではこれはもっと残酷な話だという評もあります。

さらに「崖の上のポニョ」も、普通に観ると親子で観られるカワイイ生き物(?)が登場するハートフルストーリーとして片付けることも出来ますが、これは神話なのではないかという考察もネット上に流れました。

このように優れた物語とは、多重構造になっているが故に、何回も咀嚼することが出来るし、今観た物語と10年後に観る物語では全く違う内容をとして取ることが出来る可能性があります。
そしてこの「物語」の作り手として世界的に有名なのがトルストイやドフトエフスキーなどのロシア文豪でしょう。特にドフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の層の厚さはすごい。”3人の兄弟を主軸にした家族の物語”とも読めますし”宗教文学”とも読めますし”ミステリー小説”としても読めてしまう。最近は日本のベストセラーに並んでいる小説を観ると、100人が読んでも同じ解釈が出せる「筋書き」的な物が多いのかなと感じます。

こういった多重構造を持つ「物語」を咀嚼するというのは、人生の滋養を得るという意味で重要だと思うんですね。自分とは違う主観のフィルターを通して物語を追体験するということは、長期的に観て多様性の獲得に繋がると思うのです。最近はゼロかイチかの解釈が割り切られることが増えているように思うのですが、個人的な主観で描かれた普遍性を持った「物語」を私たちはもっと咀嚼すべきだと思うのです。


水木しげる先生の自伝エッセイが、金言と教訓に溢れている件

水木しげる先生といえば、言わずと知れた大御所マンガ家で、昨年惜しまれつつもお亡くなりになってしまいました。最近、ふと書店で水木先生の自伝エッセイ見つけたので読んでみたところ、めちゃくちゃ金言と教訓が溢れすぎており、止まらなくなってしまったんですね。

九死に一生を得まくる水木先生

水木先生といえば、壮絶な戦争体験をくぐり抜けたことで有名ですが、改めてこのエッセイを見ると「よくご無事で」というくらい九死に一生を得ています。

簡単にその模様を説明すると…

・南方の激戦地「ラバウル」に行かされ、
・ボロボロの船で出航し、敵の魚雷が迫って来たがスレスレで逸れ、
・上陸後、見張りをしていた時、望遠鏡で熱帯の鳥に見とれている間に一緒にいた仲間が襲撃されたけれど、自分だけ助かり、
・助かったものの、仲間は全員死んでしまったので数日かけて味方の陣地まで命を狙われながら帰り、
・帰ったと思ったらマラリヤにかかり、42度の高熱が出て、
・やっと元気になったと思ったら爆撃により左手を失い、麻酔なしで手術する

さらに色々あるのですが、これだけ見ても何回命を落としていても不思議じゃないですよね。しかも、常に不幸の中にもラッキーが起こっているのです。例えば仲間が襲撃された時、水木先生は朝方の見張り当番なので仲間を起こしに行こうとしてたいのですが、望遠鏡で熱帯の鳥に見とれていたため、起こしに行くのが遅れたのです。敵軍は水木先生が戻るのを待って一網打尽にしようとしていたのですが、水木先生がなかなか自分のテントに戻らなかったので、命が助かりました。
さらに、爆撃により左手を失ったものの、爆撃を受けた時にいたのが療養所だったため、近くの衛生兵が即座に止血をしたおかげで助かりました。このあたりを振り返り、水木先生はこのように語っています。

人間が生きているということには、自分の力以外にどんなものの力が作用しているか知れない。自分の意志以外の様々な要素が自分を生かしているとしか考えられないことを軍隊生活では如実に体験した。

どんな環境にも幸福を見つける

ラバウルでは左手を失ったため作業要員となるのですが、現地の民族ととても仲良くなります。水木先生は現地語でコミュニケーションを取りながら「パウロ」という名前まで与えられて、民族のお祭りにまで参加するようになるのです。

土人たちの生活ぶりは、僕が子供の頃からあこがれていた「遊びと食うことが一致している」生活のようで、軍隊で苦しい目にあっている僕にとっては全く天国なのだ。僕は、部落へ遊びに行くたびに観察していたのだが、彼らは一日に三時間くらいしか働かない。熱帯の自然は、それぐらいの労働で十分に人間を食べさせてくれる。熱帯だから、衣料も住居も簡単でいい。人間が自然に対して闘いを挑むのではなく、自然が人間を生かしてくれるのだ。

戦地という過酷な状況で左手を失いながらも現地の民族の人たちとの交流を楽しみ、さらに自然にも感謝出来るというその心持ちがすごい。最終的に水木先生は現地の民族と一緒に暮らそうと、軍隊を現地除隊しようとするのですが、懇意にしていた軍医の先生に留められて帰国することなります。

状況を俯瞰して見切る視点

日本に帰ってきてからも、なぜか魚屋をやったりアパートを経営(このときのアパートの名前、水木荘がそのままペンネームになったそう)した後に、紙芝居を描くようになります。紙芝居屋は労力の割に儲からず貧困が続くのですが、そのような中でも市場を冷静に判断しています。

僕は、紙芝居は、本当にアカンようになりかけているのだと思った。子供の頃に、日露戦争の広瀬中佐の映画を見たことがあるが、沈みゆく船では、ある時機を逸すると、もはや逃げることもできず、まきぞえをくってしまう。僕は、今こそが、紙芝居丸の沈没の時だと思った。逃げなければならぬ、遅れるとアブナイ。

その後、貸本マンガの世界に活動の場を移しますが、相変わらず貧乏からは抜け出せず、貸本マンガも紙芝居と同様に衰退していきます。そんな中、うっすら知り合いだった貸本マンガ家が餓死してしまったという知らせを受けるのです。

そんなことが、と、貸本マンガ世界を知らない普通の人は思うかもしれない。しかし、本当に、こういうことがあり得る世界だったのだ。貸本マンガの世界には、餓死か栄光かの二つに一つしかなかった。栄光とは、雑誌マンガに移行して生き残ることである。

水木先生は貸本マンガにも見切りをつけて、雑誌マンガに移行して行きます。やがて代表作の「ゲゲゲの鬼太郎」で大ヒットを飛ばすのですが、この雑誌マンガに移行した時の状況判断がすごい。雑誌マンガの編集者が執筆の依頼に来たのにも関わらず、断ってしまいます。

その頃「少年マガジン」の編集者がやってきて、宇宙ものを描いてくれという。しかし、僕は宇宙ものは得意ではない。貸本マンガの連中で、雑誌から注文がきたのはいいが、不得手な分野なのに引き受けて、後で苦労した人が何人もいた。貸本マンガに引き返そうにも引き返せず、不得手な分野は当たらない、というわけだ。そういう例を知っていたから、僕は、この話は断った。

貧困の中で雑誌マンガに移行することを渇望していたら、例え苦手分野でも引き受けてしまうのが人の弱いところだと思います。しかし、水木先生はこれを冷静に断って、その後同じ編集者が「方針が代わったので好きな物を連載して良い」というオファーを持って来てから自分が得意なジャンルのマンガを連載するようになるのです。
こういう状況や周りの意見に流されない水木先生のスタンスは、この自伝の各所に現れていて、戦争の機運が高まって周りが皆「玉砕だ」と叫んでいる中でも、「先生、戦争も満州まででエエんじゃないですか」などと発言して非国民扱いを受けたと言います。

「ゲゲゲの鬼太郎」や「悪魔くん」は改善の産物!?

代表作「ゲゲゲの鬼太郎」は「墓場の鬼太郎」という水木しげる先生の紙芝居が元になっています。これは完全に水木先生のオリジナルではなく、「ハカバキタロー」というオリジナルがあり、それを改善した物だと言うのです。

ただ怪奇なだけでは、いま一つ人気に熱狂さが出ない。ユーモアとアクションが欲しいと思っていたところ、三歳になった兄貴の子供のしぐさがユーモラスであることに気づいた。顔に髪がかかったりしていておもしろい。そこで、その子をモデルにして、怪奇ではあってもグロテスクにならないようにしたら、人気がどんどん出るようになった。

この本を読んでいると、水木先生の作品やキャラクターには下地になる物や人がいて、それに先生なりの工夫や改善を加えて作品に仕上げのだということがよく分かります。同じく先生の代表作である「悪魔くん」の誕生も、実は下地になった文学作品があることが明かされています。

セリグマンの「魔法」(平凡社)を読んでいると、中に、ものすごくたくさんの魔法の話が出て来る。ああ、昔から、人間は、幸福になるために、こんなにたくさんの魔法を考えていたのだなと思い、この本とゲーテの「ファウスト」をヒントに、ノート二冊分のストーリーを作って「悪魔くん」を開始した。

ちなみにかの有名なキャラクター、ねずみ男にも実在のモデルがいるという話が明かされるのですが、それは是非本を読んでみてください。

ということで、水木しげる先生の自伝エッセイには、教訓と金言が溢れまくっているのですが、本のタイトルは「ねぼけ人生」。客観的に見ると戦争体験、その後の極貧の生活、40歳前後になってから急に売れっ子マンガ家になるという激動の人生に見えるのですが、エッセイを見ると、水木先生はどこかそれを俯瞰しながらうまく「やりすごしている」ような印象を受けます。
というのは、おそらく水木先生が人生について、自分ではどうにもならない不確定要素や運を含んで「生かされている」ことを飲み込んでいるからなのではないでしょうか。
貸本漫画家だった時代、「墓場鬼太郎」を掲載した短編マンガ集「妖奇伝」がなくなった時も、その運命の力というのが働いたそうです。

仕事もなくモンモンとしていると、兎月書房からハガキが来た。出向いてみると、熱心な読者が長文の手紙をよこし、「妖奇伝」はなくなっても「鬼太郎」だけは傑作だから何とか続けてくれ、と強く訴えてきたという。兎月のオヤジはその熱意にうたれ、「妖奇伝」の後釜として「墓場鬼太郎」という怪奇物の短編集を出すことにしたと言うのだ。短編集の中心になるのは、もちろん、僕の「墓場鬼太郎」である。人間の運命というものは、本当にさまざまな回路から成り立っているらしい。この熱心な読者の手紙によって、鬼太郎はよみがえることになり、後の僕の代表作の一つともなるのである。

ということで、久しぶりに金言と教訓に溢れたエッセイでした。ここに書いてあるのはほんの一部なので、是非エッセイを読んでみてください。南方ラバウルで出会った現地住民との交流も後日談があります。
※引用出典は全て「ねぼけ人生」水木しげる著より



▼ちなみにニコニコ動画のゲーム実況で「水木しげる」先生が監修・出演しているエピソードがあります。これもまた深い。
伝説すぎるクソゲー『四八(仮)』を実況プレイ【part37】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm26734568

カタカナ系のビジネス用語が危険である、たった一つのケース

カタカナ系ビジネス用語は、意識高い系なのか?

世の中ではカタカナ系のビジネス用語を「意識高い系」として揶揄する動きがあります。そういった用語を使った意識高い系童話なんていうものもたびたび登場し、Twitterなどで拡散されて話題になります。例を挙げると、アジェンダ、エビデンス、コアコンピタンス、バジェット、コモディティなどなどです。

ネットでシェアされるカタカナ系ビジネス用語を揶揄する意図は「カタカナ語を使って、意識が高いという鎧をまとっている自意識」を暗に批判しているわけですが、多くのカタカナ系ビジネス用語は存在意義があるのです。
こういった用語を使う理由とは「状況説明すると長くなるが、それに相当する言葉が現時点で存在しない」ため、新しくネーミングしたものが多いのです。

たとえばエビデンスですが、これは直訳すると証拠ですが、ビジネス上言った言わないを避けるために取っておく証拠のことを指します。例えば「作業を開始して良いか」について尋ねた場合「発注します」という発注メールはひとつのエビデンス(証拠)ですし、重要な会議の議事録も会議の内容を証拠づけるエビデンスになります。

さらに、コモディティという言葉も製品が洗練されてしまい、企業間ごとの品質の違いや差異がなくなって均質化したものを指します。これを1回1回長文で言うのは骨が折れるため「当社の製品はコモディティ化しているため、今回の新製品は」みたいな形である意味省略しているわけです。

ということで、世の中のカタカナ系のビジネス用語の多くは必要があって存在しているので、いちがいに意識高い系と馬鹿にするのもいかがなものかと思うのですが、危険な使われ方をしている用語群が存在します。

動詞使いをする「カタカナ系ビジネス語」を注意!?

ミーティングなどで注意して聞いていると、本来動詞に属する用語を名詞のように使っている人がいます。たとえば、決定するという意味の「フィックス」ですが、英語だと必ず動詞は主語を取ります。「フィックス(決定する)」という動詞があったら、「I(私が)」、「You(あなたが)」と「誰が」フィックス(決定)するのかが明確になります。

しかし「これ来週中には、フィックスに持っていこうよ」という感じで名詞的に活用している人は、主語を暗に明確にしないことで責任の所在をあいまいにしている確率が高いのです。フィックス(決定)するには、誰がやるかを明確にしなければならないのですが、こういう人たちの話し方を見ていると、ほっておいても状態としてフィックスというステータスに変化するような言い方に聞こえることがあります。さらに、案件を成約に持って行ったり収束させることをクローズと言いますが「よし、この案件は来週末目指してクローズ」だと言っても、誰がクローズに持って行くか誰も明確にしていないのです。(名詞化したクロージングという言葉で使われることも多いです。)

ということで、カタカナ系ビジネス用語は「説明に時間がかかる新しい事象を括る言葉」として有用なのですが、けっこうな人が「責任の所在や実行者(主語)をあいまいにするために暗に用いている」というケースがあるように感じます。
今度会議中に「これは来週中にクローズしよう」と誰かが言ったら、「それをやる担当を決めてメールで周知しましょう」とエビデンスを取っておきましょう。

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なぜ私たちは、こんなにもSMAPに特別な感情を抱くのか

1988年に結成された「SMAP」。最初は普通のアイドルだった。

私はSMAPの熱狂的なファンではないし、一度もライブにも行ったこともない。でも、今回の解散報道を見ていて、私を含める多くの人が何とも言えない鬱屈とした気持ちになったと思う。熱烈なファンではないけれど、それでもSMAPを取り巻くコアなファン越しに、彼らを遠くから見ていた者からすると、SMAPとは何なのだろうと思う。

最初にSMAPという名前を聞いたのは、近所に住むお姉さんからだった。まだまだ光GENJIが全盛の時代で、彼女は駆け出しだったSMAPの追っかけをしていたらしい。当時は本人たちから声をかけられることがたまにあり、中居くんファンだったそのお姉さんは、中居くんはファンにはクールなので声をかけてもらったことはないけれど、木村くんは割合ファンに気遣いの声をかけてくれると言っていた。

私がテレビでスマップを観るようになったのは、テレビ東京で放映していた「愛ラブSMAP」からだと思う。wikipediaを観ると1991年10月スタートとあるので、1988年の結成の3年後から始まったということになる。
この「愛ラブSMAP」は、番組のコーナー内でミニドラマをやったり料理コーナーがあったりと「SMAP×SMAP」の前身のような内容だった。元メンバーの森くんの料理コーナーがあったり、今では信じられないことだけれど、木村拓哉が街頭レポートのロケをしたりしていた。こういったアイドルファンのためのバラエティ番組というのはこれ以前にもあっただろうし、今も続いている流れだと思う。

1994年には「シュート!」というメンバー全員が出演する映画が公開された。当時、近所の映画館に舞台挨拶に来るということで、友達が観に行っていた記憶がある。映画上映中に、舞台袖からメンバーが顔をのぞかせたりして会場が大いに沸いたそうだ。
ちなみにこの映画の撮影中に、メンバーの一人が髪の毛を散髪してしまい、映画の前半と後編で明らかに髪の毛の長さ違うという現象が起きていたそうだ。監督に注意されたが、言い返して口論になったと、後にエピソードとして語っているのを聞いたことがある。それまでのアイドルは「完璧な部分しか見せない」というところがあったけれど、こういう等身大のエピソードを公開してしまうところもSMAP以降の現象なのではないかと思う。

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SMAP初主演映画「シュート!」(1994)

司会業、俳優。多角化するメンバーそれぞれの活動

とはいえ、このあたりまでSMAPは王道のアイドルの型内にいたと思う。今日のSMAPの形に至るターミングポイントは、1994年前後ではないだろうか。木村拓哉が1993年、ドラマ「あすなろ白書」に出演し、ヒロインを後ろから抱きしめて言うセリフ「俺じゃダメか」が、流行ワードとなった。これ以降、ドラマ出演が相次いでだんだんと俳優方面の活躍が多くなっていく。

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「俺じゃダメか」が流行した「あすなろ白書」1993年

一方、中居くん、慎吾ちゃん、草なぎくんの3人は1994年4月から「笑っていいとも!」のレギュラーメンバーとなる。今日の「バラエティで活躍するアイドル」という型を作るための布石は、この「笑っていいとも!」が大きかったと思うし、さらに中居くんが司会者として数々の番組を仕切っているのも、この「笑っていいとも!」の歴史が大きく影響していると思う。

「笑っていいとも」出演当初のイメージは、とにかく本番中の発言が少ないということだった。増刊号になると、それぞれSMAPのエピソードなど、面白いトークを披露するのだが、平日の生放送中は、かなり静かだったと思う。(後の「笑っていいとも」最終回では、中居くんが、出演当初はあれも話そう、これも話そうと画策していたものの、上手い具合に話すことが出来なかったと振り返っている。)その状況を見守るタモリさんの度量もすごいなぁと思うが、時間の経過とともにトーク量が増えて、コーナーの司会などもこなしていくようになる。

このあたりで印象深いのが、慎吾ちゃんが似顔絵を描くというコーナーから、稲垣吾郎の似顔絵を歌いながら描くという「五郎ちゃん絵描き歌」が生まれるエピソードだ。


針のように細い 髪が垂れる
糸のような目鼻立ち 後ろ体重~


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五郎ちゃん絵描き歌の五郎ちゃん


どこかミステリアスで耽美的な雰囲気さえ漂う五郎ちゃんを徹底的に「イジる」という、アイドルらしからぬバラエティのお作法によって、メンバーそれぞれがどんどんキャラクターナイズされていったのだった。

SMAP5人がキャラクターナイズされているがゆえに、創作物でも描きやすいという側面もあった。コバルト文庫の「いきなりミーハーシリーズ」というライトノベルには、SMAPそっくりの男子たちが登場する。彼らと主人公の女子高生2人組が、毎回色々な冒険を繰り広げるという内容なのだ。この文庫の内容を読んでいても、イケメンで完璧で優しい木村拓哉、ムードメーカーで仕切る中居くん、ミステリアスな五郎ちゃん、お互いにじゃれあう慎吾ちゃんとつよぽんという図式が出来上がっている。


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「SMAP」そっくりの5人組が登場するコバルト文庫「いきなりミーハーシリーズ」

5人の中で最も特異なキャラクターなのは、草なぎくんだと思う。草なぎくんはアイドルにしては「ふつう」に「いい人」という印象で、特出した特徴がなかったように思う。しかし、SMAPの人気が高まっていくにつれて、キャラクターの濃いメンバーの中においての相対として「ふつう」に「いい人」というキャラクターが確立した。ドラマ「いいひと。」でもいい人として主演を務め、その後も「僕の生きる道」など、良作にめぐまれて俳優としてもキャリアを積み重ねていく。

「SMAP」というコンセプト。2000年代はメンバーそれぞれの活動に

それぞれのキャラクターが際立ちながらも「SMAP」というコンセプトとしてまとまっているのも大きい特徴だと思う。2000年代に入るまでは、SMAPとして前衛的なドラマに出演することもあった。例えば「世にも奇妙な物語 SMAPの特別編」では、5つのエピソードの主演をそれぞれ努めており、いずれも良作だった。特に木村拓哉が主演を務めた「BLACK ROOM」は、映画「スマグラー おまえの未来を運べ」などを手掛けたフィルムメイカーの石井克人氏が監督を務めており、スタイリッシュすぎる映像と俳優(我修院達也)によるコントすれすれの作品でとても良かった。

さらにはドラマ「古畑任三郎」でも、「古畑任三郎 vs SMAP」という回でSMAP本人として出演していた(少しSMAP自体の設定を変えていたけれど)。ドラマ中、古畑任三郎がSMAPのメンバーに「ファンなんです。○○を見ていました。」と言いながら、メンバーの微妙なキャリアを披露するシーンがある(例えば慎吾ちゃんなら「赤ずきんチャチャ」のリーヤ役でしたよね)など、ファンが見ていて、くすぐられる内容だったと思う。

2000年以降は、メンバー単体の活動が目立っていく。木村拓哉はより俳優としての活躍が多くなり、出演するドラマはいずれも高視聴率を記録。中居くんは「笑っていいとも」の知見を活かしてバラエティの司会業を、草なぎくんはドラマも良作にめぐまれて俳優としてキャリアを積みながら「ぷっすま」などバラエティでも看板番組を持つようになる。慎吾ちゃんは「SmaSTATION!!」など司会もするようになり、「新選組!」で大河ドラマの主役にも抜擢され、五郎ちゃんは五郎ちゃんのスタイルを貫いて、今日にいたる。

ちなみに中居くんの司会者としての手腕は、時折エピソードつきで称賛されるが、2011年に生放送の音楽番組「カミスン!」にて放送事故と言われる事象が起こったことがある。「神聖かまってちゃん」というバンドのボーカル「の子」が、音楽が流れても歌いださず、急になるとを取り出してカメラに張り付けるなど、奇行に走ったのだった。この時、中居くんの対応は冷静で、淡々と進行をすすめていた。「の子」の行動を突っ込んでバラエティ方向に振る事をせずに、音楽番組の司会者として、彼らをアーティストとして扱っていたからだと思う。

私たちがSMAPを観る目線において他のスターと異なる点は、それぞれのキャラクターや背景を斟酌している点だと思う。例えば、例えば極度の人見知りでめったに電話番号を教えないけれど、草なぎくんとは小学生の時からのずっと仲良しであるとか、木村拓哉はスーパースターであるけれども「SMAP×SMAP」のスタジオ入りが誰よりも早く、スタッフと会話するなど気遣いが厚い事など、それぞれのパーソナリティについての情報を私たちは斟酌している気がする。(「嵐」は国民的アイドルではあるけれども、彼らのコアなファンではない限り、彼らのそれぞれのキャラクターをSMAPほど把握はしていないと思う。)

なぜ私たちは、SMAPに特別な感情を抱くのか

なぜ私たちが、彼らのキャラクターや背景を斟酌しているかと言えば、それはSMAPが率直であるからだと思う。その率直さが顕著に表れたのが、2年前の「笑っていいとも」の最終回だった。かつてレギュラーメンバーだった「ダウンタウン」や「ウッチャンナンチャン」といった豪華ゲストがコーナーごとに出演してタモリさんと思い出を語るという番組構成はずだったが、さんまとタモリさんのトークにダウンタウンとウッチャンナンチャンが急に加わった。そこに、爆笑問題やとんねるず、ナインティナインが突然現れて、一同が同じ舞台に介するという事件となった。誰も仕切ることが出来ない状況の中、自然と仕切りをまかされたのが中居くんだった。このメンバーの中では、お笑い芸人が仕切るわけにはいかず、それぞれのタレントと親交があり、かつ仕切り力のある中居くんが壇上に上がらされた。めちゃくちゃ進行が難しい事案だったと思うが、この環境の中で自然と仕切ることをまかされたのだ。

そのてんやわんやの後、タモリさん対してひとりひとりメッセージを贈るコーナーでは、中居くんはタモリさんに、このようなメッセージを伝えている。

やっぱり、バラエティって非常に残酷なものだなとも思います。
おかげさまで歌もやらさせてもらって、お芝居もやらさせてもらって、バラエティもやらさせてもらって、
歌の世界っていうのは、いずれライブとかやれば最終日があって、
ドラマもクランクアップがあって、映画もオールアップがあって、
始める時に、そこのゴールに向かって、それを糧にして進んでるんじゃないかなって思います。
でもバラエティは、終わらない事を目指して、進むジャンルなんじゃないかなと。
覚悟を持たないと、いけないジャンルなんじゃないかなと思いながら、
いいともに出させてもらったのをきっかけに、僕は、
バラエティを中心に、SMAPとして、やらさせてもらおうかなと。

非常にやっぱり、バラエティの終わりは…寂しいですね。

他のジャンルは評判がよかろうが、悪かろうが、終わりがあるんですけど、
バラエティって…ゴールないところで、終わらなければならないので、
こんなに…残酷なことがあるのかなと、思います。

当時、俺と香取で、ほんと何も出来なかったんですね。
「今日はこれやろう」「今日はこの話やろう」って言って何も出来なかったんですけど、
でも、番組を、タモさんをアシストする事が、
楽しい番組を、娯楽を提供する手段の一つでもあるという事を僕は学びました。

引用:http://drifter-2181.hateblo.jp/entry/2014/04/01/005932

まさに、タモさんのアシストをするという出すぎない体制そのものが、この直前にあった「てんやわんや」を仕切れる司会力が身についた原点なのだと思う。

さらに、慎吾ちゃんの話も印象的なものだった。

ちょっと我慢できず言います。
答えはいらないですが…そもそも何で終わるんですか?
(中略)
ツヨポン(草なぎ剛)がすごく仲良くて
タモさんち行ったりすんのすげーずっと羨ましかったです
あと、ぼく、あの何か携帯の番号教えたりとか、そうゆうの苦手な人で
なかなかタモさんと話す時間もなかったりして、
中居くんとかはそういうのもすごくするんですけど、
で、中居くんとか食事よく行ったりしてんのも知ってて、
『あ、そうなんだ』と言いながらも僕も行きたかったです。
(中略)
えー、あと、あの、生放送で毎週20年間出させていただいて、
テレビに出ている僕ですけど、スマップでも辛かったり
苦しい時があって、そんな時に笑ってなきゃいけないのが
辛い時もあって、『笑っていいとも!』って言うのが
辛い苦しい時もあったりするんだけど、始まったら笑顔になってる
自分がいて、苦しかったりする時に昼間にいいとも見ると、
タモさんやってたり、みんなまたやってる…

ごめんなさいホント…ほんとにありがとうございました…
タモリさん、これからも、辛かったり苦しかったりしても、
笑っててもいいかな?

(タモリさん、間髪入れずに)「いいとも!」

引用:http://utsu-kyushoku.net/column/%E6%9C%AC%E9%9F%B3%E3%81%A7%E8%A9%B1%E3%81%99%E5%87%84%E3%81%95-%E7%AC%91%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%A8%E3%82%82%E6%9C%80%E7%B5%82%E5%9B%9E-%E9%A6%99%E5%8F%96%E6%85%8E%E5%90%BE.html

自分から連絡先を聞くことが出来ない性格だけれど、本当は草なぎくんのことがすごくうらやましかった。そして、未だに笑っていいともが終わるということを飲み込めていないという、本音のメッセージだった。

番組中では、木村拓哉と五郎ちゃんも登場して、タモリさんを囲んで「ありがとう」を歌うという一幕もあった。

今こうやって「SMAP」の一連の思い出をつらつらと思い返していて、なんとなく分かった気がする。「ああ、だからSMAPは特別なんだなー」と。彼らのコアなファンでなくとも、私たちはひとりひとり彼らのパーソナリティを知っていて、それはひとえにSMAPの率直さというところから来ているのだと。

タモリさんを囲んで歌うメンバーの表情を見ていると、本当にタモリさんのことが好きなのだろうなと思うし、タモリさんに向けたコメントの率直さは、彼らの飾り気のない姿なのだ。だからこそ、私たちはSMAPに対して、ただの芸能人以上の何かを感じていて、陽のあたるところにいつまでもいて欲しいと、その率直さを失わないで欲しいと思っているのだと。

ありがとう




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