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すきやばし次郎が修行を、エルブリがデータを重んじる理由

液体窒素を使った調理方法など、料理に科学を取り入れた「分子ガストロミー」の草分け的存在として知られるスペインのレストラン、エルブリ。フェラン・アドリアという天才料理人が率いていたこのレストランは、半年間休業しては半年間営業するというスタイルで運営されていて、45席しかないシートには200万件もの予約申し込みが殺到していたと言います。(エルブリは2011年をもって閉店し、現在はエルブリ財団として分子ガストロノミーの啓蒙に注力しているそうです。)

一方、オバマ大統領が訪日の際に、訪れたことでも話題になった銀座の老舗寿司屋、すきやばし次郎。数寄屋橋のビルの地下に店舗を構え、客席はわずかに10席程度でトイレは他店と共同。30貫ほどの寿司のコースを3万円で提供する高級店です。通常2か月前に予約が埋まるという人気店ですが、コースは2、30分程度で次々と出され、接客が非常に簡素というかそっけないことでも有名です。

このエルブリとすきやばし次郎は、同じ飲食店でありながら、とても対極にあります。それぞれドキュメンタリー映画化されており、この映画を見ると両者の違いに驚かれるのですが、映画を見ているうちにレストランとは、料理とは何かということをだんだんと考えさせられます。

変化を続けるエルブリ、伝統を守るすきやばし次郎

エルブリが1年のうち、半年のみしか営業をしていなかった理由は、残りの半年を次シーズンのメニュー研究に費やしていたからです。30品目に及ぶコース料理は、そのシーズンでしか食べることはできません。次のシーズンには、新しいコンセプトの元、全てのメニュー構成が刷新されるからです。一方、すきやばし次郎は、というよりは日本の老舗には変わらないことが求められます。すきやばし次郎のコースの最後に出る、カステラのような見た目の卵焼き。これは何十年も変わらない伝統の調理法で受け継がれてきたと言います。常に料理を刷新して古いバージョンを脱皮していくエルブリと、ずっと伝統を守り続けるすきやばし次郎、変化という側面において両者は真逆なのです。

データを重んじるエルブリ、人から人へ継承するすきやばし次郎

エルブリのメニュー開発の特徴は、いきなり完成品を作るところから入らないことです。まずは、科学の実験を行うように、食材に様々な調理方法でアプローチします。例えばサツマイモという食材ひとつをとっても、ピューレにしてからオイルで焼いてみたらどうか、あるいは真空調理にしてみてはどうか、オイルではなくて水を加えてみたら?と、食材に対する調理のアプローチを何度も繰り返し、結果を記録していきます。記録は、調理場の片隅に並べられたマッキントッシュにまさにデータとして蓄積されていくのです。劇中でパソコンのメモリーが飛んでしまった時、フェランは激昂します。紙では残っているからというシェフに対して「紙に書き留めていてもなんの意味もない。大事なのはデータなんだ」と言い放つのです。

一方、すきやばし次郎では、寿司の握り方がデータとして残されるということは、もちろんありません。それは人から人へ継承され、口伝というよりはむしろ、親方のやり方を観察することで会得しいきます。先人のやり方をつぶさに見習い、自分で握り方を身につけていくという手法です。そして、これはすきやばし次郎に限らず、日本の多くの老舗と言われる店ではごく当たり前に取り入れられてきた継承方法なのです。

料理を学問でとらえるエルブリ、料理を哲学でとらえるすきやばし次郎

エルブリが食材のデータを蓄積していることからも分かる通り、彼らは料理を共有可能な一つの学問として捉え、汎用性が効くものであると考えています。エルブリが2011年に閉店した理由を、フェラン・アドリア氏はこのように語っています。

「料理研究財団の設立が目的です。料理をレストランという形態ではなく、もっと幅広い方法で人々に伝えたいと、熟考の末に決断しました。

財団というと堅苦しいですが、料理を言葉で表現するシンクタンクとでも言ったらいいでしょうか。具体的な活動としては、まず今の『エル・ブリ』の建物を改造して新しい建物を造ります。そこでは料理人だけなく、さまざまな分野のクリエーターやアーティストが料理について研究を行い、その内容を世界にインターネットで配信するつもりです」(フェラン氏)
出典:http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20110526/1035903/

この言葉からも分かる通り、フェラン・アドリア氏はしかるべき食材に関するデータがあれば、そのレシピは汎用性を持つと考えているのです。

一方、すきやばし次郎は料理を学問として捉えてはいません。むしろ何らかの哲学(もっと言うと宗教のようにも思えてきます)として捉えています。次郎の卵焼きを焼けるようになるまでは、数年以上の長い修行を要します。効率という観点で考えると、無駄なことにすら思えます。すきやばし次郎に限らず、伝統を重んじる料理の現場では、10年、20年の修行を経てようやく焼き場を任されたりと、とても長い時間がかかることが多いようです。
以前、帝国ホテルの料理長を26年間務めた村上信夫シェフのエッセイを読んだことがあります。帝国ホテルに配属され、最初は毎日皿洗い係として食材に触らせてもらえない日々が続きます。しかも、洗い場に回される鍋には、もれなく洗剤が投入されています。新入りに帝国ホテルのソースを味見させないためです。村上信夫シェフは、それならと調理場にあった全ての寸胴鍋をピカピカに磨き上げます。ある日、寸胴鍋がピカピカになっていることに気づいた先輩シェフは、ソースパンに洗剤を入れないで洗い場に回し、村上シェフに味見をさせてあげるのです。これらも、料理を学問として捉えると、非常に非効率な現象のように思われます。

エルブリとすきやばし次郎の違いを見ていくと、「料理」という共通点はあるものの、両者が全く異なるものであることが分かります。エルブリのロジックは明快です。エルブリは常に料理という学問を常に刷新して進化させていくことを目指しているため、データの蓄積や知識の共有が合理的になります。では、すきやばし次郎ならびに伝統的な老舗は、卵焼きを焼くのに数年以上かけるなど、なぜ一見非効率なことをわざわざさせるのでしょうか。
それは、老舗の多くが「変わらないこと」を目指しているからではないでしょうか。「変わらない」ということは、想像するよりもずっと難しいことです。現状に対して特に意識を払わなければ、それは少しづつ、しかし確実に変わっていってしまうからです。変わらないでるということは、非常に精神力を使う、ある意味禅のような状態なのかもしれません。それゆえ、料理に対しての技術やデータよりも、日々の料理や仕事に対する相対し方というフィソロジーに重きが置かれており、それが長い修行期間に転化されているのではないでしょうか。

ちなみに、この両者のドキュメンタリーについて、エルブリはとても面白かったのですが、すきやばし次郎のドキュメンタリーはとてもつまらなかったです。(途中で観るのを止めたくなるくらい。)
それは、すきやばし次郎を映像化しただけでは、表面上は何のコンテクストも浮かんでこず、ただただ淡々としているからです。そこには創作現場にありがちな葛藤や人間関係などのドラマティックな展開はなく、ただただ変わらずに毎日寿司を握るという情景が描き出されます。ゆえに、それが老舗が目指しているものであり、それを映像化したところで視聴者側と共有できるコンテクストがないのではないのかなと思います。



興行収入は年間1200億円以上!?それでも邦画が面白くない理由

最近、よく邦画がつまらなくなったと言われます。公開される邦画は人気の漫画や小説、テレビドラマなどの原作モノばかりで、出演している俳優はネームバリュー中心で演技力もないという意見が多いようです。しかし、邦画の興行収入は2000代半ばに洋画を逆転しており、2015年は1,204億円と、洋画の968億円を上回っています。「つまらない」と言われつつも、原作モノありきの邦画は、収益が伴うのですね。

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出典:http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5666.html

では、収益を考えずに「邦画がつまらなくなったか?」と聞かれたら「つまらなくなった」と思います。加えて、面白い映画を探そうという熱量が人々から失われたような気がします。面白い映画が作られなくなったから探そうと思わなくなったのか、それとも忙しくて映画を観なくなったから面白い映画がなくなってきたのか。これはニワトリタマゴの関係ですが、ミニシアターの減少と都市に根付いた映画カルチャーの衰退が要因のように思います。

ミニシアターの減少と都市に根付いた映画カルチャーの衰退

カルチャーというのは、都市とは切り離せない関係だと思います。お互いに影響を及ぼしながら、カルチャーが根付いた都市には吸引力のようなモノが生まれ、さらに人を引きつけてカルチャーを強固なものにしていきます。例えばきゃりーぱみゅぱみゅを筆頭とするカワイイカルチャーは「原宿」という都市に根ざしています。「原宿」という都市はカワイイカルチャーのシンボルとなり、共感した人たちを都市に引きつけてさらに強固なものしていくのです。
2000年代前半までの渋谷や銀座、新宿あたりにはたくさんのミニシアターがあり、映画ファンの人たちを呼び寄せる映画のシンボル的な役割を果たしていました。

2001年に行定勲監督の初期の長編作「贅沢な骨」をテアトル新宿に観に行った時、満員で立ち見が出る勢いでした。劇場から座布団が配られて、通路に座布団を敷いて見た記憶があります。
ミニシアターにもそれぞれの劇場の色があり、この劇場はフランス映画、この劇場はシュールでアートっぽい作品が多いなど特徴がありました。しかし、2000年代後半以降、ミニシアターはどんどん閉館していき、映画文化圏的なものが失われていくのです。
現在では、以前はミニシアター系の作品はそのまま全国のシネコンチェーンにて上映されているようです。しかし、都市が分散されて中心地が存在しないということは、カルチャーとしての熱量と継続性を持ち辛いのです。

若手映像監督の登竜門の消失

小さい箱で上映するミニシアターが消えるということは、若手映像監督の登竜門の消失にも繋がります。先ほどの行定勲監督も、「贅沢な骨」以降、「世界の中心で愛を叫ぶ」や「北の零年」などの大作を手掛けています。

また、多数の俳優や映画好きから支持をうける監督に岩井俊二さんがいます。「リリイ・シュシュのすべて」等を手掛けている独特の映像美が特徴的ですが、ブレイクのきっかけとなったのはフジテレビのドラマ「ifもしも」内で手掛けたドラマ「if もしも~打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」が高い評価を受けたことがきっかけでした。
この頃は、「if もしも」や「世にも奇妙な物語」など、オムニバスドラマ枠などで若手の映像作家の登竜門が用意されていたのです。「世にも奇妙な物語」からは他にも北川悦吏子さんや君塚良一さんなど多数の大御所が参加していました。君塚さんはwikipediaによると、自主映画を作るようにやっていたそうで、ゴールデンタイムの番組で若手の映像作家たちに大きな「のりしろ」が与えられていたのだなと思います。

1990年代前半に、落合正幸監督とのコンビで『世にも奇妙な物語』を多数手がけた。落合とは「王道じゃなくて、ひねったやつをやろう」という合意があり、「自主映画を作るようにやってた」と後に回想している

人々は「良い映画」を求めていないのか

ミニシアターが閉鎖されていったり、若手クリエイターの登竜門が減っていたりと、ドラマにしろ映画にしろ、確実に当たると思うコンテンツを、確実に当たると思う監督とキャストで提供する姿勢が見え、のりしろが少なくなっているように思います。面白い映画を作るというよりは、確実にヒットをするためのマーケティングの邦画が重要視されるのは、邦画の興行収入が実際に伸びている以上しょうがないのかもしれません。しかし、人々は本当に「良い映画」を求めていないのでしょうか。
先日岩井俊二監督の新作映画「リップヴァンウィンクルの花嫁」が全国28館で公開されました。これが上映時間3時間という、映画的にヒットしないと言われる長尺の作品になっています。出演しているキャストも他の邦画に比べると地味で、内容も筋書きにしてしまうとすぐ説明が終わってしまうようなストーリーです。しかし、これが割にヒットしていて21館が追加されて全国49館公開になり、ロングランとなりました。私も劇場に足を運びましたが、久しぶりに「良い映画」を観たなあという印象です。観ている間にスクリーンに没入して視点としての自分が「ふわふわ」としているような、これが映画だよなあという手応えがある作品です。
やはり一部の人々は、いまもまだ「良い映画」を求めているのではないかなと思います。

むちゃくちゃな昔の映画、マーケティングな現代の映画

打ち上げ花火

昔のドラマを現代で放映したら一発アウト

Huluで「蒲田行進曲」を見ました。最初は作業用BGMのつもりでかけていたのに、わりと面白くてちゃんと全部見ました。「バトルロワイアル」の深作欣司監督作品なのですが、つかこうへいさんの舞台が元になっていて、蒲田にあった撮影所を舞台に、銀幕の新進スター銀ちゃんとその女である落ち目の女優小夏、銀ちゃんの舎弟的存在である大部屋俳優のヤスをとりまく群像劇です。
子夏を妊娠させてしまった銀ちゃんがヤスに押し付けるというむちゃくちゃな展開なのですが、映画を観終わった後「2013年現在ではありえない映画だな」と思いました。今の映画ってマーケティング臭がするっていうか、お金の感じが見えるというか、原作モノばかりで洗練されてるんですよね。なんというか、遊びの部分とか余白がない。マーケティング的に設計されたマーケティングのためのマーケティング要素を詰め込まれた感じ。

最近Huluに昔のTBSドラマが入ってきて観てるんですが、やっぱり昔のドラマもむちゃくちゃなんですよ。「高校教師」とか、絶対今やったらPTAあたりから怒られるでしょうし、「ケイゾク」もグロい。「ケイゾク」と同じチームが作ったという「SPEC」は、けっこう丁寧にグロくならないようにしています。そういえば「同窓会」という、ゲイをテーマに描いたドラマなんかもありました。あれも、今だったら一発アウトですね。

気が付いたら、どんどんドラマも最適化されて、マーケティングのためのマーケティングによる・・・(以下略)。

レジスタンス精神から生まれた「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? 」

今では半期に一回くらいになりましたが「世にも奇妙な物語」は、元々週1回放送の3話構成のオムニバスでした。新人作家の登竜門と言われていて、岩井俊二監督も参加していました。岩井俊二監督といえば、「世にも奇妙な物語」の後シリーズとなった「ifもしも」で放映された「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? 」が、TVドラマなのにも関わらず日本映画監督協会新人賞を受賞し、再編集版が劇場公開されています。

メイキングを見たことがあるのですが、当初岩井監督は“主人公が異なる2つの選択を選んだ末にたどりついた2つの結末”というルールを破って、1つしか結末を用意しなかったそうで、フジテレビ側は難色を示したそうです。(結局、打ち上げ花火~の結末は2つあるのですが、主人公がやり直したパターンはNGという掟は破ることになります)

ルールを破るなんて、レジスタンス精神旺盛です。こういうレジスタンス精神が、余白を生むと思うんですね。で、超絶面白いものとか、イノベーションとかって、そういう余白から出て来ると思うのです。


スティーブ・ジョブズを演じる俳優を選び直す!

ジョブズが、アシュトン・カッチャー・・・だと・・・。

スティーブ・ジョブズの自伝映画の予告編が披露されたらしいですが・・・ジョブズ役を聞いてびっくりしました。アシュトン・カッチャー・・・だと・・・。

アシュトン・カッチャーといえばデミ・ムーアと結婚して離婚して、若かった時はアイドルっぽかったからラブコメによく出てたくらいの記憶しかありません。なぜアシュトン・カッチャー!ツイッターとかPathに投資してITに知見があるみたいなブランディングだからなのか!?なんかいずれにしろ、うーん、、ってなって映画自体観ようかどうか迷います。

確かにブラピとかジョニー・デップが演じないのは分かるのです。ジョブズの個性が強すぎるので、スター性のありすぎる俳優が演じても、ジョブズに見えなくなってきます。に、してもアシュトン・カッチャーって!

というわけでふさわしいと思う俳優さんを3人選び直してみました。

第3位 ラッセル・クロウ ピッタリ度 48%
ラッセル・クロウ

この人は、日本でも割と名の知れた俳優さんですが、天才数学者から古代の戦士まで、演技の幅が広いです。しかも見逃せないのはプライベートで喧嘩っぱやいことで有名で、現にいまgoogle先生で調べたら予測変換で「ラッセル・クロウ 喧嘩」と出てきました。そのへんの瞬間的に沸騰してしまう傾向もジョブズを彷彿とさせるのです。

第2位 クリストファー・ノーラン ピッタリ度 76%
クリスチャンベール

バッドマン役の人ですが、去年公開されたシリーズ最終話でムキムキの筋肉を披露してましたね。「おいおい、ジョブズってそんなむきむきじゃないよ」と思うことなかれ、彼は映画「マシニスト」に出演したときに1年間不眠になっている主人公を演じるため、なんと30キロ近く体重を落としているのです。
マシニスト
この逸話によりカメレオン俳優と呼ばれていますが、その役者根性があれば、ジョブズ役もこなせるはず!

第1位 ダニエル・デイ・ルイス ピッタリ度120%
ダニエル・デイ・ルイス

ぶっちゃけ、ジョブズ役はこの人が演じればいいと思うんですよ。すごい目も鋭いし、この人相当のカメレオン俳優だと思います。何年か前にミュージカル映画「NINE」を観ましたが、見終わってしばらく経ってから主役がダニエル・デイ・ルイスであることに気づきました。
なにより押したいのは、この人自身が相当の変り者だということです。確か、一時ハリウッドが嫌になって「普通の靴屋になるんだ」と言って、靴屋をやっていたはず。

やっぱり、ジョブズはエキセントリックな俳優さんに演じて欲しいんですよね・・・。

て、ここまで書いてはじめてアシュトン・カッチャーのジョブズの写真見たら、ネットで激似!って話題になっていました。しかも果実食まねして入院していたらしい・・・。ちょっと言い過ぎた、アシュトン・カッチャーごめんね。って溜飲を下げつつもこの写真が特殊メイクに見えなくもないのでした。でも映画観てすごかったら、トム・クルーズをさんざんDisっていたのに「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」を観て絶賛した「インタビュー~」の原作者みたいになっちゃうかも・・・。

かっちゃー